キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

黒澤明

黒澤明「天国と地獄」(1963)接続により対立の境界が消える時。追う者と追われる者の秘かな同一性。

黒澤明「天国と地獄」を観るのは二回目で、好きな映画である。三船敏郎を主人公として現代を舞台に、天国と地獄が描かれる。スウェーデンボルグが、同様の題の書物を遺していたと記憶する。人類が、何度となく繰り返し描いてきた主題であり、この二つの組み合わせというのは、相反するために緊張が走り、わかりやすく、盛り上がる。そこにエネルギーが走る。天国と地獄には、お互いへの距離があるように見える、その間を埋めるべく猛烈な列車が走るのだ。時に、凄惨な激突となり、時に和や円となり、間隙に橋が渡される、あるいは橋は爆破されて永遠につながりを見出せずに、終わる。天国と地獄、天使と悪魔、光と影、魅惑的で、人を惹きつけずにはいられない主題である。黒澤明映画における「天国と地獄」は、高い所に住む会社の重役と低く貧しい生活をしている者との対照を軸に展開され、誘拐事件をリアルに描き、サスペンスや刑事ドラマのような魅力で、観客を引っ張っていく。そして引っ張った先では、「用心棒」(1961)「椿三十郎」(1962)そしてこの「天国と地獄」(1963)という流れの通り、二つに分かれた天国と地獄が出会い、その対立は解体される。貧富の区別、天国と地獄という現代人の考えがちな対立意識をあっけなく透かして見せる。空かしてしまう。少し前の流行で言えば、勝ち組と負け組なる対立が意味のないばかばかしいものであることを、はっきりと描いている。「用心棒」では、敵と味方の間で、両方の境界を行き来した。「椿三十郎」でも同様に、どちらか片方ではなく、自在というほどに、両方を行き来する。そこには光る剣を持った英雄がいた。戦いは、二つに分かれた者同士がぶつかり合うことを意味する。チャンバラの魅力で引っ張りながらも、芸術家黒澤明は、対立の間に、人間と世界の本質を見ようとしている。というよりも、彼ほど実直、ストレートな人間にとっては、自然そのように映画も出来てくるというべきかもしれない。

「天国と地獄」と「野良犬」追う者と追われる者の秘かな同一性

黒澤明映画の中で「天国と地獄」にもっとも近いのは「野良犬」(1949)だとおもう。「野良犬」では、二人の刑事が、犯人を追う。犯人は、貧しい、ぼろい部屋に住んでいる。戦後のどたばたでつらい経験もしている。そして追いかける刑事のひとりもまた、戦後のどたばたで物を盗まれたりして、犯人の気持ちがわからないこともない。むしろ、自分もまた犯人のようになっていたかもしれない、との思いが離れない。この若い刑事を演じるのが三船敏郎であった。刑事と犯人、追う者と追われる者が、相反するものと観るのが一般的区別思考である。芸術家は、追う者と追われる者は、秘かな同一性を持っていることを内側で知っている。刑事と犯人は、秘かに同じものであり、それは相反するように表層で見えながら、社会通念上、その表層も重視しなければならないが、黒澤明が投影された若い刑事は、その区別に疑問を感じ取る。犯人の姿は、ありえた自分自身の姿でもある。腑に落ちないまま、若い刑事は犯人を走って追う。その泥くさい逃走劇の横で、ピアノの音が聞こえ、蝶々の歌を子供たちが歌っているのだった。「天国と地獄」では、三船敏郎は、会社の重役である。犯人は貧しい男である。誘拐を行った犯人と三船敏郎が、最後の場面で、刑務所で面会する。犯人は、天高くそびえる豪邸を眺めて、憎たらしく思うようになったと語る。自らの家が狭く、クーラーもなく汗だくでいる中、三船敏郎は豪邸で涼んでいる。そういう天国と地獄、勝ち組と負け組の相反する対立の葛藤の中で、低い者は高い者を憎むようになったのだ。そして、三船敏郎は、こう言う。「なぜ、わたしと君が両極端であるように思うんだね」と。誘拐を発端に、三船敏郎は、会社での争いに敗れて豪邸を手放し、一からのスタートとなった。しかし、彼は、良いシューズを創りたいという想いがあり、それを助けてくれる人がいて、また一から、良い靴を創ろうと思っている。天国か地獄か、勝ち組か負け組か、そういう区別思考の狭い世界などに、彼は立っておらず、ただ自分のやりたいことをやるだけなのだ。「野良犬」では、刑事と犯人という区別を超える意識が予感され、同様に「天国と地獄」では、持つ者と持たぬ者、高い者と低い者と見える区別を超える意識が示される。あるいは離れている間は対立に思われていた幻影を、真実の光を接続することによって焼き尽くしてしまう。

「天国と地獄」のあらすじ、二人のクロサワと後半の転調

お話の構造は、お金持ちが子供を誘拐された為、会社の権力争いに勝つための資金を身代金に使おうとすると、息子ではなく、息子の友達が間違って誘拐されたことがわかり、お金を払わない、払うという葛藤が生じて、しばらくそれが描かれた後、失脚も覚悟の上、身代金を払うことになる。その後は、刑事が犯人捜査していく流れとなっていく。最もこの映画の好きなところは、後半になって雰囲気ががらりと変わってしまうところである。この感触は、黒沢清映画と似ていて驚いた。黒澤明の影響は、黒沢清にも及んでいることをわたしは理解した。黒澤明映画全30作品の29作品まで観て、それに気付いたのは、我ながら遅かった。「悪い奴ほどよく眠る」(1958)の廃墟にせよ、それが戦後の廃墟と、物質的豊かさと引き換えに文化的な廃墟となってしまった現代との違いはあれ、同じクロサワの名を冠しているのには、隠れた自然のいたずらが働いていたのかもしれない。現存する日本の芸術家の中でわたしが最も心酔しているのは黒沢清であり、わたしが遅ればせながら熱中し大芸術家と評価しているのが黒澤明であり、両者がわたしを惹きつける点で既に通底した何かを表現しているのは当然であり、また映画に関わる者、まして黒沢清ほどの男が、黒澤明を観ていないはずもない。黒澤明は、映画を創った男のひとりであり、そのクオリティは世界に今なお響いている。手元にDVDを置いておきたいと思わせるほどの映画監督は、数えるほどしかいない。黒澤明も黒沢清も、わたしは全作品を手元に置きたいと願うような芸術家なのだ。黒沢清の全作品も今後取り組むつもりだが、彼の描く、存在と非存在の境界を越えていく作風は、(不在ではない)不気味で美しく、世界への眼差しに包まれては救われ、同時に恐れ入る。同じクロサワの名をして、全く恥ずかしくない、並び立つ芸術家が黒沢清だと思う。黒澤明「天国と地獄」の後半からの転調、そこからは神話的な雰囲気が色濃くなるところ、前半はエンターティメントで観客を引っ張りながら、一気に、そこから次元が変わってしまう感じが、黒沢清の傑作群とよく似ている感触なのだ。(黒沢清の「cure」にせよ「カリスマ」にせよ「叫び」にせよ「回路」にせよ)「天国と地獄」はラストに向けて、刑事たちが犯人を尾行していく。繁華街、にぎやかな酒場での踊りと音楽、光に溢れた街から、やがて暗い路地裏の、薄暗い売人たちの世界へと入っていく、このコントラスト、天国と地獄という対照が見事に描かれて美しい。黒澤明「白痴」(1951)の、ぞくぞくするような後半場面も思い出させる。そうして、天国と地獄のそれぞれにいると思われた男二人が対面して話をしたとき、特別に惹きつけられる時間が生じる。なぜだろうか、なぜこうも、二人が出会ったときに、天国と地獄と思われたものが出会ったときに感興が強くなるのか。日常では、おしゃべりはあっても対話はほとんどない。天国と地獄と思われた、相反するものと思われた二人が対話するということが、接触するということが、特別な時間となって観客を惹きつけるのだろう。そうして、別に両極端でも何でもないことが、接触によってわかる。離れている間は、不可思議な引力がハタラキ、そこに橋がかかると、実は、何でもないひとり相撲であり、それは個人の心の内で影を相手に視てしまっていたのであり、結局は個人の心の問題、意識の問題なのだとわかるのだった。

-黒澤明