キクチ・ヒサシ

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サッカー

グアルディオラの実像「ペップ・グアルディオラ、キミにすべてを語ろう」

ペップ・グアルディオラ。サッカー選手として既に有名であったが、低迷していたバルセロナを監督として率いるようになってから、世界トップクラスの監督として認められるに至る。多くのタイトルを獲得し、そのサッカー戦術は、他の監督の追随を許さないものであった。ボールを足で扱うという偶然性と不確実性を余儀なくされる世界最大の観客を持つこのスポーツにおいて、徹底したボール保持を中心とした戦術に挑み、信じられないような結果を積み重ねた。現代サッカーおける革命であった。クラブワールドカップで、当時ネイマール要するブラジルチームが、バルセロナの保持するボールに触ることさえ出来ない。この光景には唖然とするものがあった。サッカーの捉え方が全く違うのである。当時のバルセロナは強すぎて、プロ同士の試合が、大人と中学生の試合のようにさえ見えることもよくあった。

サッカーは、人間の闘争本能が文化的に昇華されたものであり、監督とは戦国武将や総司令官のようなものであり、彼の決断力、人心掌握、戦略、実行力全てが、チームの浮沈を左右する。チームは生きものであり、勝ち続けるには、組織内の競争力を高め、それでいてチームとして統一しなければならない。戦略を練り、それを選手に納得させるための伝達能力と説得力が必要である。スター選手は、組織内で浮いた存在になる。彼らが慢心し、監督に従わなくなれば組織は崩壊する。監督が、責任を負い、命令する権限を持つことを全選手に納得させなければならない。監督の仕事とは、あらゆる仕事の模範となるような職務であり、多くの人の興味を惹きつける。一騎当千の、個の強いスター選手と共に監督が人気を集めるのも当然であろう。グアルディオラ、モウリーニョ、ファーガソン、クロップ、わたしも多くの監督に注目してきた。立ち居振る舞い、扱うレトリック、彼らの人生観と世界観に興味を抱いてきたのだと思う。彼らは一流の監督であり、重責を担い、結果を残し続けてきた。しかし、彼らもまた、わたしたちと同じ人間なのである。わたしは、そういうわたしたちと同じ人間が、どのように仕事に臨んでいるのか、どのような人生観と世界観を持っているかに興味があるのだ。

この本は、バルセロナの監督を辞した後、ドイツの名門バイエルンに就任した一年目に密着したものであり、グアルディオラの実像に迫るもので、素晴らしい内容であった。マスコミの前に居るグアルディオラとサッカーの内容と結果については、わたしも知っているが、彼の日常の仕事がどのように行われているのかを、わたしたちと同じ人間であるグアルディオラの日々を知ることが出来ることが有益であった。世界最高の監督と称される男は、日々迷い、戦っていた。わたしたちと同じように迷い、しかし強く職務にコミットしていた。試合の日は、夜まで食を取らないというところも、ひしひしとわたしにはその気持ちが伝わってきた。大体、食事をすると人はパフォーマンスが下がる。胃腸が活動し、それを消化するためにエネルギーが使用されるのだから、当然のことなのだが、わたしの場合は、昼飯を食べると眠気が強烈に襲ってきて、仕事にならないため、ある職務を課せられていたとき、昼飯を食べないようになった。激務であったが、昼の間は食事を取らなかった。緊張を強いられる仕事だからこそ、食を取ることは不都合だった。夜だけが、食事の時間となり、そのときに飲むワインのおいしさは得も言われない。グアルディオラは、チームにとっていつでもエゴが問題になると考えているようだ。その通りで、チームは、組織というものは、エゴによって崩壊する。誰かのエゴだけを認めると不満が出てくる。エゴは、次のエゴを呼ぶ。「あいつだけずるい」という風に、組織内に悪霊のように浮かび始め、一度こうなると収束するのに大変なエネルギーを取られることになる。どんなに一騎当千の選手、存在であっても、その者たった一人では勝つことが出来ないのが組織であり、サッカーチームであるから、そのような強い個を必要としながらも、組織にうまくバランスする必要がある。サッカーに限らず、あらゆるチームにおいて、個と組織の関係というのは、むずかしい課題だと思う。自らの立場を守ろうと他を足蹴りすることもよくあることだし、高い個の能力によって、上の立場をなくしてしまおうとする者が、組織にある雰囲気を醸成することもよくあることである。ファーガソンのやり方は、マスコミや観客を含め、誰も文句を言えないようなゴッドファーザーのような雰囲気で、全てを威圧してしまう。どんな有名選手でも、ファーガソンは、監督を超える権威や権限を持とうとするのを絶対に許さない。彼は、殺気立った気迫で、どのような人間を叱りつけることも出来る。負けている試合のハーフタイムには、鬼のように怒鳴ることは有名であり、香川真司も、ファーガソンがあそこまで怒る人だとは思わなったと述べていたが、相当な気迫なのだと思う。彼の存在感の強さが、チームをチームとして一体感を持たせるための要になっている。人間は弱く、あらゆる分野で、エゴが顔を出してくる。そのエゴを止めることの出来る存在であること、これがファーガソンの凄さだと思う。そして、人間心理的にも、自分を止めることの出来る強大な存在、言うことを聞かざるを得ない、所属出来る上位の存在があることは、反発しながらも人間が心の底で求めているものでもあるだろう。瞬間的に恨まれたり、対立することを恐れずに、めちゃくちゃに怒鳴ることが出来るというのは、相当な自信と勇気と迫力が要る。そして、不要に怒っているのとは異なることも選手に伝わるし、外に対しても同じように堂々と立ち向かっている監督を感じ取るから、このような強い男の下に所属しているということが安心感にもなるだろう。ファーガソンは、あるインタビューで、他の監督を褒めるときに、彼は頑固だし大丈夫だ、という言い方をしている。自分のやり方や信念をどういうときでも曲げないこと、それを貫くことが大事だとファーガソンは考えている。三流だと周囲に合わせる方向になるが、一流になると言うことが全く逆で、おそらく、強いプレッシャー、周囲の様々な意見が、特に負けているときや良くないときには、たくさん押し寄せてくる。しかし、それでも、頑固にそれを貫き通すことが大事だと、長い経験からファーガソンはわかっているのだと思う。責任を持たない者は何でも言える。しかし責任を持つ者が、周囲の考えや意見に振り回されて、ころころと自分のやり方や信念を変えていたら、一体誰が責任を持っているのかわからなくなってしまう。監督業は、孤独な重圧に耐えて、自らの信念に従って決断できる主体であることが必須なのだろう。誰でも良いときも悪いときもある、勝てるときも負けるときもある。しかし、自らのやり方を頑固に貫き通さなければ、そこに成長の望みはなくなってしまう。頑固さの本体とは、自らの信じるところを実際に行動に移していく勇気なのだと思う。グアルディオラも、怒鳴ったりもするようだが、この本から窺われたのは、グアルディオラの戦術や練習やその他に、選手が魅了されていることが重要だと考えているようだ。まるで恋人同士のように、選手の瞳に魅了されている輝きがなくなったとき、彼はその組織を去るときだと考えている。彼の場合は、戦術を無理やりに納得させて説得するのではなく、魅力によって惹きつけているのだとわかる。本質的には、この魅力、カリスマ性によって、選手が従うのではなく、選手が魅了されているところが重要なのだと思う。常に一緒にいる人にカリスマを感じ続けるのは難しい。やがてそれは日常になってしまう。その感じはわかる。組織において、上に立つものが求心力を保つためには、一緒に働きたい、その場にいるのが楽しい、リスペクト出来る、何らかの点で自分を上回る、特に心で上回ることが必要で、それがカリスマであり、魅力であり、組織のパフォーマンスに直結する魔法なのだと思う。魅了できていれば、説得したり無理強いしなくても良いのだから。グアルディオラの場合、その知性、戦術、言葉のレトリック、サッカーにかける情熱が、選手を惹きつけるのだろう。その魅了の魔法が解けかけたとき、場所を変えていかざるを得ないということでもあるだろう。結果を出した組織を、更に上を目指して、パフォーマンスを引き出すのは、非常に難しいことだと思う。中田英寿でも香川真司でも、日本における強い名声は、彼らのハングリーさを奪ったと思う。ハラ一杯食べたら、どうしてそこから狩りに行こうなどと人間思うだろうか。モウリーニョもグアルディオラも、人心掌握の方法を、さらに洗練していくのではないかと思う。その経過で、負けることもまた覚えなければならないのかもしれない。彼らは、監督のキャリアにおいて、これまで勝ち過ぎたから。グアルディオラは、この本における時代、バイエルン一年目で、レアル相手に大敗する。それまで、ドイツリーグで、負けなし、失点はわずかであったのに、彼らは、早々とドイツリーグで優勝を決めてから、メンタルが定まらなくなり、監督もまた、自らの信念であるボールを保持する戦術を曲げたことによって大敗する。そして、グアルディオラは、勝利というのは一本の細い糸によってつながっているに過ぎないと洞察する。優勝を喜び、昼間に食事を取った自分自身の態度も内省する。ハラ一杯食べ過ぎたのだ。もう一度、彼らは走らなければならないのである。ハングリーになって、そのときはじめて、勝利の一本の細い糸が引かれる。彼のように世界的名声を得た男が、このように迷い、洞察をしている姿は、彼の実像は、マスコミによって知る彼とはかけ離れていた。それが、この本の面白いところだと思う。チェスの名手とペップ・グアルディオラが対談したとき、チェスの名手は、いずれ自分が負ける相手がわかっていたと言う。「誰ですか?」と問うと、「時間だよ」と名手は答えたと言う。

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