キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

コトバの塔

心身脱力の観察(イニエスタ、武道)

2024/08/13

脱力には、様々な意味があると思われるが、ここで話題としたい脱力は、無駄な力の入っていない状態が、人間のベストパフォーマンスにつながっているという文脈である。バルセロナで、静かなる影の王として君臨してきたイニエスタが、Jリーグの神戸に移籍し、さっそくデビューしたが、彼はひとりだけ異質な存在感を発揮し、その脱力は、たいへん魅力的であった。神戸と湘南の試合であったが、まったく一人だけ、異なる動きをしていた。何が違うのかと言うと、最低筋力出力で、パスを出す、身体を動かすということなのだろう。動きがやわらかく、軽いドリブルの一歩の足の振りと、近くの味方にパスを出すときの足の振りに、ほとんど違いがないので、するっとパスが出て、敵も反応できないようなタイミングとなり、良くも悪くも、がちゃがちゃと力んで動いている他の選手たちとの違いが、鮮明で、こんなに力抜いてやっていいの?と思うような、軽やかさであった。Jリーガーで言うと、長らく日本代表のボランチを務めたガンバ大阪の遠藤選手のプレイに似ていた。イニエスタは、縦にパスを出せるときに、躊躇なく、パッと出す。何の躊躇もなく、パッと出すので、そのパスのスピードがそれほど速くないにもかかわらず、すっと通ってしまう。他の日本の選手は、縦にパスを出すときに、相手に取られるかもしれないという躊躇が入って、その間に、相手が寄せてきてしまうので、縦パスをやめて、横の味方にパスするというシーンが非常に多かった。イニエスタの場合、そこの決断と状況判断がピッチで一番早く、パスを出す予備動作がわからない。ヘビが噛みつくときに、後ろへの予備動作がわからない感じに似ている。パッと出す。力が抜けていて、しかし、空いたスペースや味方にパスに出す判断が、とてもとても早い。その姿勢だけで、ずっと見ていたいと思わせる。速いパスでないと通らないと思っているようなスペースに、決断の早さと無駄の動きのなさで、それほど速くないパスを通して見せる。すごく簡単に見せるが、不思議な興奮が湧き上がってくる。こいつは、やベー奴だな、という感じ。また、相手の逆を取るのがうまい。ディフェンダーが、力みかえってボールを取りに来た勢いの逆を取ってしまう。ディフェンダーは、その勢いの中にいるので、逆を取られると止まることは出来ない。相手の力を利用するのがうまいとも言える。パスをぎりぎりで次の人につないで、ディフェンダーが寄せてくる。まだぎりぎりでパスをして、ディフェンダーが寄せてくる、という追いかけられるようなパス回しになるときに、誰かが、相手ディフェンダーの逆を取ることで、その連動したプレッシャを剥がすということをしないと苦しくなるという局面がサッカーではよくある。一流の選手は、そこで逆を取るのがうまい。パスをするふりをしてドリブル、ドリブルをするふりをしてパス、右にパスするふりをして左にパス、ボールを止めるふりをしてダイレクトパスといった具合に。イニエスタはサッカー選手のお手本と言われるが、それは人間としてのお手本でさえあった。満員電車の中で、人間関係の中で、相手の力に抵抗するのではなく、その力を利用すること。力むのではなく、脱力することで、身を軽くすること。そして、必要なときに、パッと動くこと。それは無欲即静虚動直ということであるし、思考や感情が発する前の未発状態、中庸を維持するという態度と同様である。イニエスタが東の島にやってきたことに、運命的なものを感じてしまう。宮本武蔵を持ち出すまでもなく、日本の文脈にとって、彼ほど面白い存在はないと思う。柔よく剛を制す、意識的緊張の一点集中ではなく、深層意識レベルへのアクセスを重視し、無為に発現してくる力を使う文化。土俵際で相手の力を利用して投げ飛ばす力士。イニエスタを理解するに充分な文化的文脈がある。わたしたちに言わせると、彼はまるで禅の老師のようだ。春の獅子のように美しい、孔雀の羽根のように軽やかだ。彼のような老師を持った幸せを、わたしたちの生活につなげることを考えると、まずは、(1)最低筋力出力を意識することがあげられる。人間は、ほぼ骨だけで立つことが出来る。重心の軸を揃えることが出来れば、最低筋力出力で立ち、歩き、動き、座ることが出来る。それには、両足の裏を、しっかりと大地につけて、最低筋力出力で立ち、座り、歩くような姿勢を日々探ることから始まるだろう。わたしは、電車、職場、歩いているとき、あらゆる場面で、最低筋力出力の姿勢を探ることを楽しんでいる。脱力するには、姿勢が重要なのだ。立っているときと、歩いているときには、足の裏がしっかりと大地について、心地良い体勢をだいぶつかんでいる。手の指先の力が抜けている風に、手を振って歩いていると、脱力の感じがうまくつかめてくるようだ。立つときには、自分の中心をパッと開いて立っているイメージ、門番が己を見せつけて堂々と立っているイメージがしっくりくる。ふとしたときに、気付くと歩くのに、色々なところに力が入っていることがある。それを緩めて、足裏と軽い手の指を意識すると、歩くことは何と軽く、楽しいことだろうと感じる。今、わたしが取り組んでいるのは、座っているときに、心身脱力することである。どうも、座っているときは、力が抜けにくい。おそらく、姿勢の軸が整っていないのだろう。その為、両足をぴったりとつけるところから、足と腰掛けている尻と首と頭の軸を意識して、軽く座れる場所を探っている。次に(2)目で視るのではなく耳で観ることである。これは、宮本武蔵の五輪書にも書いてあることだが、目は、意識的緊張を強める部位であり、というよりも、表層的な意識とは目とイコールだと思うと良いのかもしれない。人は、目に入ってくるものに対して、思考し、感情を動かし、それに向かっていく習性がある。目を見開けば見開くほど、合理的な意識、一点集中の意識は強まる。自我意識は、目と大きな関わりがあるのだろう。一方、耳で観るというのは、要するに体感覚に意識を向けることで、それには、半眼という言葉をわたしたちは持っている。半眼にして、物体をじっくり見ないような目の在り方を試みると、不思議と力が抜けていく。目の周りの筋肉に無駄な力が入っていることにも関わっているのだと思うが、顔の筋肉の無駄な力が抜けていき、それが、全体の筋肉にもつながって影響していることと思われる。(3)腹式呼吸は、要するに、お腹で深呼吸することだが、そうしていると、思考することが出来ない。つまり、副交感神経優位のリラックス状態につながってくる。力を抜こうとしても、力は抜けない。かえって、抜こうと考えるので、より力が入ってくる。力が抜けている状態をつくるためには、深呼吸、お腹から深く呼吸しているのを通常とするのが良いのだろう。こうして、姿勢を整えて、半眼にし、深呼吸をしていたら、ほぼ座禅と同様になってくる。仏の黄金色、その人格達成の模範像は、まさしく、心身脱力した状態であり、それはこの上なく美しい。マインドフルネスという呼吸に集中することで、メンタルを鍛え、ストレス対処する方法がグーグルやオリンピックなどで活用されていて、皆ご存じのことと思うが、マインドフルネスの起源には、曹洞宗を創始した道元の哲学が関わっていると言われている。道元の著作「正法眼蔵」では、存在の神秘に開かれる道とは、自分を学ぶことであるとする。そして、自分を学ぶとは自分を忘れることであると言う。自分を忘れるとは世界の方からやってくるものに開かれることであると言う。世界からやってくるものに開かれるとは、自分の心身も、他人の心身も、脱ぎ捨てることであると言う。心身脱落、脱落心身の師となり、身を軽くすることこそが、存在の神秘に開かれる道(悟り)だと言うのである。(4)自分を忘れて没頭しているとき、人は誰でもリラックスする。ベストパフォーマンスを出せる。勝ちたい、優勝したい、私利私欲が動くと、人は力んで固くなってしまう。道元が言うように、あるいは宮本武蔵が言うように、自分のことを考えると、それは力みになり、隙になり、存在の本質から外れてしまう。更に加えると(5)ゆっくりと動作を行う、ということがあげられる。ゆっくりと動作することは、ついせっかちになって無駄な力が入るのを予防するようだ。まとめると(1)足裏をつけ重力に対して軸を整えて最低筋力出力を習慣にして立ち、歩き、座り、動く(2)半眼にして耳で観るようにすることで目の周りの筋肉を抜く(3)深呼吸すること(4)自分を忘れること(結果に急がない、ジャッジをしない、行為専心、無心、無欲)(5)ゆっくり動作を行うこと。これによって心身脱落、脱落心身を境涯とすることへの基礎的な準備が整うと期待している。

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