キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

コトバの塔

芯があり多層となっている塔

2016/07/08

ユング心理学には、ペルソナという概念があり、例えば教授という職業と自分自身を同一視するなど、(家に帰っても教授をしていては、家族はたまらない)外に見せる顔と自分自身が同一だと思いこむことの愚を述べている。外側の顔は実際には彼の一部であり、適応上必要であるが、彼の全体ではない。仮面なしも裸の危険があるが、仮面そのものを自身として同一視しても危険であると述べている。

芯多層

仮面には色々あるが、一般には、表の顔と裏の顔などと、他者への不信を語る者もいるように、これについてどう考えるかは、難しいものであったが、一つには、仮面という言い方よりも、役割という言い方がしっくりくるように思われた。与えられた場での役割としての自分があり、それらは、場によって変化する。又、相手によって層のどこで対応するかは異なっているが、各層には、一つの芯が通っている。(その芯は、下では根となって別れ、大地から、様々な元型を吸い上げる)根は変わらず、伸びる幹(層)と枝葉(役割)は、人格の芯とその顕現を現す。別の言い方をすれば、芯が通り、多層となっている塔が、わたしの全体と考えれば、どの層で、どの役割をこなしていても、自己の顕現だと言える。一つの役割、一つの層を自己だと思い込むと、これは全体ならざるものを全体としていることになる。この、芯があり多層となっている塔は、五重塔や宝塔に投影することが出来、(人格全体の象徴にわたしには見える)その頂点を手に掴み、動かすと、それは全体に波及する。どの役割であっても、どの層であっても、芯が通っているため、表層のことも深層に影響しうることを、それは示唆している。(深層が真実で、表層は嘘だとは言い切れない)芯があれば、どれもが生命の顕現であり、全体に影響を与えるため、どの役割もどの層も、嘘でも仮面でもなく、生命の発露として認識できる。一つの役割と層への固執は、末梢化による疲労、枯渇を生む。芯が多層を統一する。

-コトバの塔