神社と相撲の構造
2016/07/09
伊勢神宮と相撲における土俵の円
神社には何もなかった。人為的なものは、見えないもののありかを示していた。空洞であった。間があった。風が抜けていた。柱の間に透明があった。透明のありかを示すために、建物があった。鳥居があった。「何もない」と思われる部分、透明な部分は、全てを生成する根源であった。何もない部分、透明な部分が全てを生成する無限、神であった。間であった。間を見る文化、空気を見る文化、神と呼ばれるものは間にあり、空気に、透明な中にある。目に見えない、聞こえない、手で触れられない、透明で微細な、生成する力、これが神と呼ばれるものとして奉られていた。奉られた鏡は、透明な部分の存在させる力が、いままさに、鏡の前のわたしを存在させていることをこちらに突きつけてくる。「わたしは在るというものである」こうして、存在させているものを感知させ、形になって透明な空気の中を移動するわたしを存在させている力そのものに、頭を垂れさせる。通り抜けられる透明の部分(空)と、透明を埋めている存在(事物、人)。鳥居は透明を埋めて存在し、同じように人は、透明の海を次々と透明を埋めては空け、また埋めては空け渡して泳いでいく。透明がなければ存在は成り立たず、ちょうど白紙がなければ絵が描けないように、当たり前だと思っていた透明の部分を、この白紙自体がなければ、われわれが存在できないことを教えるかのような、存在そのものの不思議(絵)、存在させている超越的なもの(白紙)を体感させてくる造りとなっている。また、生木による美しい建築は、自然のものを組み合わせて再創造する人間の力を現しており、二十年毎に社を新しくするのは、生命の交代、つながりの表現に思われる。伊勢神宮体験後、神社を注意して見てまわったが、神社の屋根にある天狗の鼻のような突起は、どう見ても、ちょんまげに酷似しており、空間を奉る社は、人間存在そのものの投影でもあると見れば、人間を社に見立ててもおかしくない。社の空間をせめぎ合う、思考、感情、その他は、透明の中を通り抜ける風のようなものであり、それはいつか過ぎ去っていくし、抜けていくし、また入り込んでもくる、人は思考や感情を自分のものと思っているが、思考や感情は、その空間を抜ける風で、(今こうしてわたしが書いているものも、正確にはわたしが書いているのではなく、わたしの中を動くものなのであろう)時に思考や感情こそが、彼を捉えてしまうことがあるが、実際には空であり、その本質は透明であると感知する。相撲の土俵などは、上方に神社然とした屋根があり、土俵の周りは空間がたっぷりとあり、その円形の中で、ちょんまげをした二人の力士が向き合い、お互いを円の外に弾き出そうとする。まるで、人の心の中で、相反する葛藤が生じ、それらが戦い、決着がつく。日常で人々が経験していることは、絶え間ない葛藤の折中であり、その投影を、土俵という外在化されたこころの舞台で、円の中で、向き合う力士に仮託され、決せられる。個人の内で行われていることが、外で表現されている為、人は浄化を得る。より強いものが、番付を上げていき、横綱は、葛藤に勝ち続ける姿を人々に見せ、高い人格達成の比喩となり、人々の理想となるが、本当の主役は、透明に始まり、透明に終わる土俵であると言いたい。力士が土俵に上がる前も、下りた後も、そこに存在していた、透明な心のような空(白紙)である。この透明がなければ、裸の男達が、まわしを取り合うことも、塩を投げることもできなかった。最後の力士が去り、しんとした透明が、つまりは平安が、土俵に、そして我々の心にやってくる。