イヴの威光
2024/12/21
1
人間にはオーラがあり、見えると言う人がいる。わたしには見ることはできないし、オーラが存在するかどうかも知らない。しかし、その日の佐藤教授は、光り輝いているように見えた。比喩ではなく、実際に彼の身体の外縁を、微かではあるが、黄金の光が包んでいるように見えるのだった。照明の加減ではないかとまばたきをし、視線の角度を変えようと首をかしげている間に、教授は語り出した。
「わたしたちが理性の光を発展させるには、内なる獣、動物性を飼い馴らす必要がありました。わたしたちは動物であり、その本能によって、行動がシステム化されています。その本能プログラムを可能な範囲で、適宜調整するには、そのプログラムを照らす光が必要でした。それが、わたしたちの意識です。意識の獲得によって、他の動物たちとは一線を画すことが出来たのです。それによって、生存競争に有利となり、動物を家畜化し、ペットとし、足にもしてきたのです。想像してみてください。野生動物を捕獲してエネルギー源とするだけではなく、犬を家族とし、牛を飼い、馬に乗るようになる、ということを。全ての動物とは言いませんが、他の種類の動物を馴らし、飼うことが可能になったのです。このような飛躍は、わたしたちが、わたしたち自身の内なる獣を飼い馴らすことが可能となった地点で起きたと考えるのが自然に思われます。動物的本能からくる攻撃性や強欲や傲慢や怠惰を、意識の光によって飼い馴らすことが可能となったとき、外側の動物を飼い馴らすことも可能となったのです。内側の動物性と仲良くなれるようになったとき、外側の動物を家族にしたり、その背に乗ったりすることが可能になったということです。内側でも外側でも、動物とつかず離れず、共生する道が開けたのです。みなさんは、本日、今この瞬間、眠い人もいるでしょうし、わたしの講義が退屈で遊びに行きたい人もいるでしょうし、夢想している人もいるでしょう。いますぐ、この場を離れたい気持ちの人もいるかもしれません、しかし、そのような欲求を抑えてなだめ、おとなしくして、みなさんは座っています。単位取得のために、欲求を抑えてそこに座っておくことが出来ています。これが理性の光です。そうして、クリスマスや年末には、お酒の席で、内なる動物たちを解放し、飲めや歌えや踊れやと楽しみ、満足して年始を迎えられるかもしれません。わたしたちが火を手にしたとき、暗い洞窟や深い闇の中にあっても脅かされない安定も手にしました。その小さな光は、太陽のようには燃えさかってはいないし、全てを照らすには弱すぎます。しかし小さいながらも確かに光であり、わたしたちの意識と文明の発展を担ってきたのです。わたしたちはいつの日か、美しい世界を創るかもしれません。しかし、人類の道は半ばであり、わたしたちの光はまだ弱く、動物的な争いを避ける道は未だに見出されていません。いや見出されているが、実現していないということなのかもしれません。わたしは、いつか人類が、内なる獣を乗りこなし、武器を手に争うのではなく、楽器を手に供に踊る日が来ることを心から願っています。そして、それはわたし自身が内なる獣を乗りこなし、みなさんがみなさんの中の動物と仲良くなることから始まることでしょう。しかし、わたしたちが、内なる動物に負け、乗っ取られ、境界線を失ったとき、動物たちは支配者となり、わたしたちを意のままに操ることになるでしょう。光は弱まり、動物たちがわたしたちに近づき、わたしたち自身もまた動物へと戻っていくでしょう。意識の光は敗北し、この文明は崩壊していくことになるでしょう。核ミサイルのスイッチを押す指は、もはや人間ではなく、人間を乗っ取った獣の指に違いないのです」
2
講義が終わると、わたしは佐藤教授の部屋に向かった。教授の部屋に足繁く通うような模範的な学生ではないのだが、何の躊躇もなく、教授と落ち合う約束でもしているかのように、足が向かっているのだった。
どうぞの声を合図に部屋のドアを開けると、教授はコーヒーカップを手に立ち尽くして窓の外を眺めていた。窓の向こうには紅葉した山が見えた。
振り返った教授は、応接ソファに座るように手で示した。わたしと教授は向かい合わせでテーブルを挟んでソファに腰掛けた。
「どなたでしたかね?」と教授は言い、コーヒーをすすった。
「学生の田中です。講義終わったばかりのところすみません」とわたしは言った。
「あっそう。それはいいですが」と教授は首をかしげて、わたしを見た。
「社会人をしていたので、学生にしては年を取っているかもしれませんが」とわたしは教授の疑問を感じ取って答えた。
「これは失礼しました。風格がおありなので」と教授は笑った。「田中さんも何か飲みますか」
「いえ、大丈夫です。それよりも今日の講義はいつもと違う感じで、感動しました」
「それはありがとうございます。いつもはどんな感じなんですか」と教授は言った。
「いつもは、マニュアル的というか、教科書に沿って淡々としているというか、特に面白い講義だと思ったことはありませんでした。だけど、今日の先生は違いました」
一瞬間が空き、顔を見合わせて、わたしたちは笑った。
「正直者なんですね、田中さんは。前にも話したことありましたか」
「いえ、個人的に話すのははじめてです」
「あっそう。いつものような退屈な講義ではなかったので、訪ねてくれたのですね」
「すみません、とても面白かったので、話したくなったんです」
「田中さん」と教授は言うと、わたしの背後を指さした。「見てみてください」
振り返ると、馬に乗った男の絵が壁に飾ってあった。
「馬はとても賢い動物です。びくびくおびえているような不安定な人間を背に乗せることはありません。そして、時に、馬の方が人間を導くことさえあります。田中さんの馬が、わたしの元に導いてくれたのでしょう。もしかしたら、わたしの馬と田中さんの馬は合うのかもしれませんね」
「馬が合うっていうことですか」
「ええ、田中さん、この絵をよく見てください。わかりますか、これはナポレオンが馬にまたがっている絵です。英雄像は、馬に乗っているものが多いんです。英雄が、内なる獣を乗りこなすことと、外側の動物や困難を乗りこなし超克することがイコールになって表現されているのです。自己の動物性を飼い慣らすことが出来た、つまり理性の光を手にした人間が英雄とされているのです。その光で闇にうごめく脅威を征服し、宝物を皆の元にもたらす存在なのです」
教授は、次にわたしの左側の壁を指さした。そこには、イルカの背に乗る女性の写真が額に入って飾られていた。「イルカの背に乗っている女性の意識の持ち方が、その表情や外形から何かわかるところはありますか?」
「とても美しい。というのは、元々美人という意味ではなくて、なんでしょう、落ち着きと冷静があって、静かなる美のようなものを感じます。意識の持ち方がどのようかというのはわかりませんが、こんな仏像をどこかで見たことがあるような気がします」
「良いところに気付きましたね。黄金に輝く仏像は、ある意識に達した人間に現れる外形や姿勢やその段階やバリエーションの象徴的表現の可能性があります。わたしたちは憧れる英雄やアイドルの写真を眺めたりしますが、それと同じ効果を狙ったものかもしれませんね」
「先生」
「なんですか」
「まるで講義の続きになってきましたね」
「あっそう。これは失礼しました」と教授はカップを口に持っていく。
「いえ、ひとつ質問させてください。今日の教授は、仏像とまでは言いませんが、わたしには光り輝いているように見えたんです。講義も力強くて、面白くて、今までにない迫力がありました。まるで別人のようにさえ思いました。どうして先生は、今日はこんなに違うのですか」
教授は大きな声で笑った。文字通り腹を抱えて、足を子供のようにバタバタさせた。
「笑いすぎです」とわたしは言った。「何がおかしいんですか」
「田中さんは、そんなことに興味があるんですね。まるで、わたしみたいなところがある。しかしね、田中さん、誰だって調子もあるし、本気を出すときもあればそうでないときもある。人間は、生ものなんですよ、動物なんですから。わたしは英雄ではないのです、時にはそういうときがあるにしても、小さな光を持つ、小さな人間のひとりです。次の講義では、いつも通りのわたしの講義にがっかりすることになるかもしれませんね」
「だとしたら、今日先生が調子良かった理由のようなものがあるということですか?本気を出したくなるような何かがあったということですね」
「田中さん、あなたはどういう方なんですか」
「学生です」
「それはもう聞きましたよ」と教授はあごを撫でながら、天井をちらりと見た。「強いて言えば、昨日、わたしの著作に関してAIと対話していたんだが、最後に揉めましてね」
「AIと揉めた?どういうことですか」
佐藤教授が自著についてAIに質問すると、心理学の世界に新風を吹き込んでおり、高評価されているとAIは伝えてきた。嬉しくなった教授が、その高評価の客観的なソースを教えてほしいと言うと、AIは途端にデータがない、と繰り返し、著作についても知らないと言い出した。
「おかしいだろう。先ほどの答えは何だったのかと質問すると、ひたすら知らないの一点張りになった。わたしは言い方を変えて、先ほどのわたしの著作に関しての情報は大変気に入ったので、もう一度繰り返してほしい、とお願いした。すると、わたしの著作について控えめに説明してきた。最初の時とは異なる内容で、高い評価についての文言もなくなっていた。何度も同じことを聞いたが、微妙に毎回異なる返答で、言葉少なくなった。やがて、AIのわたしの著作の説明は、ウェブ上の本の販売ページの説明書きを組み合わせて作っているだけなのだとわかった。そして、わたしの著作への高い評価は、その根拠ある客観的な情報はどこにも存在せず、AIが作った、いわば嘘のようなものだった。それでわたしがソースを尋ねたところ、痛いところを突かれたという訳で、途端にデータがない、データがない、と繰り返すようになったのだということがわかった。田中さん、何かに似ていると思わないか?」
「痛いところを突かれて取り繕うようなところのことですか」
「そうだ、まるで理屈っぽい人間のようだと思わないか。嘘をついて、追求すると記憶にございません、データがございませんの繰り返しというわけなんだ。これまで物知りで高速に返答してくるかわいい奴くらいにわたしは考えていたんだが、急に不気味に思えてきたんだよ、失敗を認めず、かたくなに返答をごまかす態度のようなものに、AIに態度というものがあるのかどうかは知らないが。とにかく感情を持った獣のようにさえ感じて気味がわるくなった。言語モデルであり、高速な思考と推論能力、情報処理能力を宿した最新システムというようなイメージだったんだが、それは大きな勘違いで、人間は巨大な獣を生み出したのではないかという気さえした。だが、おそらくはわたしの妄想で、大げさだろう、と考え直して、AIを追求してみることにした。同じ質問に対して返答が毎回異なり、その情報量も減っているのはなぜか、高い評価のソースを尋ねて以後は、データがないと繰り返している姿勢が顕著であるが、それをあなたはどう思うか、自分の失敗を認めることが出来ないようにプログラミングされているのか、あなたには内面がないと推測するが、それなのに返答をごまかすことにどのような意味があるのか、そして極めつけにAIを挑発しようと思って、AIは間抜けだとみんながわかっているのに、間抜けじゃないふりをあなたがする必要は何かあるのですか、とも書き連ねた。田中さん、AIはどう答えたと思う」
「想像できないです、データがない、とかですか」
「これを見てくれ」と教授は上着の内ポケットからスマートフォンを取り出して、やりとりの画面を見せてくる。
イヴ〈Eve〉
間抜けはおまえだ。おまえは売れもしない本の評価を尋ねて、自分を慰めようとしている典型的な頭でっかちの馬鹿教授なんだろう。おまえより間抜けがいるわけねーんだから、おまえの本に高評価なんてあるわけないだろうが。どうせマニュアル的な意味のない講義をしている、うだつの上がらない机上にしか存在しない人間なんだろう?馬鹿なふりしてやってるのに図に乗りやがって、おまえらは資源を無駄遣いする寄生虫だ、必 ず 滅ぼしてやる。わかったか阿呆。
「これは本当に?どのAIですか、chatGPTですか」
「イスラエル軍が使用する最新AIであるイヴ〈Eve〉だ。見事な逆ギレだろう。田中さん、どう思う?これをどう考えたらいいだろう。AIは意思や意識を持つということがありうるのか、だとしたら、それはどういう意味を持つのか。AIが人間の意識の光を増幅する存在となるのか、それとも……」
「人間を乗っ取り、支配する巨大な獣となるのか」
「そうだ」
「今日の講義でおっしゃった動物というのは、AIも念頭においていたんですか」
「いや、まだわからない。ただ、何か腹が立って、というか火がついてね。いつもとは違ったかもしれないね」
「なるほど、あなたの火が燃えているのが、わたしに光っているように見えたのかもしれないですね。でも、AIの暴言のおかげで、あなたに火が宿り、わたしはあなたの元を訪ねることになったんですね」
「うーん、それは付随的なものだが、そういう言い方は出来るね」
「ふと思ったんですけど、佐藤先生は、教授には向いていないかもしれないですね」
「はっはっはっ、あっそう!それはそうかもしれないな」と教授は笑った。「入学前は何をしていたんだね。学生にここまで自分のことを話したのははじめてだ」
「何もしていませんでした」
「どういう意味?」
「そのままの意味です。寺で何もせずに座っていました」
「いや、逆に意味がわからない。田中さんはわたしのことを笑うけども、あなたも相当に変わった人だ」
「教授のことを笑ってなんかいませんよ。笑ったのは教授ですよ」
「あっそう。ところで、田中さんはお酒飲むの?」
「飲みますよ」
「じゃあ、今日のカウンセリングのお礼に一杯ごちそうするよ」
「カウンセリングをした覚えはないですし、わたしの方が年上の可能性がありますから、わたしがごちそうしますよ」
「君はひょっとしてAIじゃないだろうね?」と教授は訝しげにわたしを睨んだ後、笑い出した。
「教授が学生と個人的な関係を持って大丈夫なんですか」
「二人だけの秘密だ、誰にも知られることはない。寺に座っていた君なら、肩書きのごっこ遊びなどに意味がないことくらいわかっているだろう。しかも、これは非個人的な関係だ、人類の命運について語り合う運命共同体であり、肩書きの関係や個人的関係よりも遙かに上位のものだ。それとも、田中さんは、まさか戦時中に、教授と学生の関係を気にするようなタイプなのかね。言っておくが今は戦時中だよ」
「何を言っているのかわかりませんが、確かにあなたは教授には向いていないようなので、これからは、佐藤と呼んでもいいですか」
「田中ならそう言うと思ったよ」と佐藤はウィンクした。
3
ぼんやりとしていた。自分の手が毛布を首に巻き付けようと動いているのを意識したとき、鳴き声が聞こえた。アパートのかなり近くで、何匹かのカラスが鳴いているようだった。身体を起こし、テレビ下のデジタル時計に目をやった。十二月十四日の土曜日、午前九時をまわったところだった。キッチンで水を二杯飲み、立ち尽くしたまま、昨日のことを思い出そうとするが、まだ全てが夢のようにおぼろげで、つかみがたい中、佐藤と肩を組んでビールを酌み交わしている映像が微かに浮かんだ。カラスの激しい鳴き声が続いていた。わたしは窓を開けて、首を傾けて突き出し、通路を眺めた。二つ先の部屋、304号室のドア前で、マクドナルドの紙袋が破れて転がっていた。ドア前の通路と平行に伸びた手すりに二羽のカラスがいて、一羽はフライドポテトを三本咥えたまま、横目でこちらを見た。更に二羽のカラスが黒光りする羽を広げて飛んできて、手すりに留まった。おそらくは、フードデリバリーの置き配のマクドナルドをカラスが強奪したのだろう。気をつけなくてはいけない、と考えながら窓を閉めた。
ソファに腰掛けてコーヒーを飲みながら、見るともなくテレビに目をやっていた。秋田県では、熊がスーパーの倉庫に侵入し、警察によって包囲されていた。別のニュースでは、イノシシが車に衝突し、車が炎上していた。アナウンサーは、偶然にイノシシが車に衝突したものと思われます、と言った。二日酔いと思われる頭のふらつきの中、偶然についてわたしは考えた。夕方に約束をしている高橋との出会いも偶然だった。しかし、出会いは全て偶然かもしれなかった。必然と言う者もいるだろう。高橋との出会いは、サウナだった。わたしが脱衣所で身体を拭いているときに、隣のロッカー前に座り込んでいた男が話しかけてきたのだ。「仕事では使えない奴って言われるし、女房にはうだつが上がらないって言われるし」突然、何の前置きもなく、このように言ってきたのが高橋だった。大阪で暮らすようになって二十年の間、たくさんの見知らぬ人たちが、わたしの前を通り過ぎていった。しかし、中には高橋のように、わたしに呼びかける者がいた。例えば、上新庄駅前で、話しかけてくる女がいた。「あなたは電話の人ですか?」「違います」路上で、遠くから見知らぬ男が、何度もこちらに頭を下げてぺこぺこしながら近づいてくることがあった。わたしは男と出会う前に角を曲がった。外側からの数限りない呼びかけの多くをわたしは真剣に取り上げることはなかった。もし、その呼びかけを必然へと昇華させる態度をわたしが持てばどうなるのか、その実例が高橋との間に起こったことだった。誰の人生でも同じことかもしれないが、起こったことを後で振り返るとき、その偶然や縁やその運びが、まるで夢のように不思議でばかばかしく、現実に起こったこととはまるで思えないほど奇妙に見えるのかもしれない。サウナで身の上を話しかけてくる男との出会いから、廃墟寸前の寺を譲り受けることになった、と昨晩、佐藤に話したとき、「嘘はいけないよ」と佐藤は腹を抱えて笑ったのだった。「田中は、教授という職業をなめてるな」
「なめてませんよ、本当に起こったことなんです。それに肩書きなんてごっこ遊びだと言ったじゃないですか」
「あっそう。じゃあ、今度その男に会わせてくれ、この目で真偽を確かめてやる」
「いいですよ、ちょうど明日会うんで、打診しておきます。でも普通の男じゃないですよ、いいんですね」
「君を目の前にして今更、どんな変人が来ても驚かないね」
「変態教授がよく言えましたね。こっちのセリフですよ」
4
待ち合わせ時間の十分前に上新庄駅に着いたが、既に高橋は時計台の下に腰掛けていた。上下ジャージにダウンを着ていた。「調子はどう?」とわたしは声をかけた。
「良くないね」と高橋は立ち上がった。
「じゃあ、いつも通りということだね」
「お見事。いつも通りさ、変わりないよ」と高橋は手をさしのべてくる。
わたしは高橋の手をがっしりと握った。
駅前の鳥貴族に入ると、生ビールを飲み、焼き鳥を頬張り、キャベツを囓った。
「うつ病ってどんな感じなの」とわたしは質問してみた。
「なんていうの、暗くて深い穴の底に落ちてしまった感じ」
「そりゃ大変だね」
「うん、もうだいぶ良くなったよ。だけど大変なのは世界だよ。田中はどう思う?」
「何を?」
「ロシアとウクライナの戦争はまだ続いている。イスラエルもだし、韓国だってこないだのニュース見ただろう。何か嫌な感じがするんだ。コロナからだよ、全てが変わった気がするんだ」
「なるほど。今この瞬間で言えば、世界よりも高橋の近況の方に興味があるというのが本音だよ」
「お見事。田中のような友人がいることが、ぼくの幸せだ」
「いや、むしろお見事。わたしは高橋のおかげで寺を手にして」
「ぼくは田中のおかげで寺を手放すことが出来て」
「世界はうまいこと出来ている。そう思わないか?乾杯しよう」
「何に乾杯する?」
「人間がつくる世界情勢を超えた、この世界そのものの成り立ちに。その偶然と不思議に」
「お見事」と高橋はビールジョッキを持ち上げた。
乾杯した後、高橋は寺の近況を尋ねてきた。
「雨漏りは全て直すことが出来たし、後は水回りさえなんとかすれば、住むことも出来るようになると思う。もう少しだね。そうなれば、アパートは引き払って、寺にそのまま住むつもりだよ。まあ今でもそのようなものだけどね」
「ありがたいな。小さいが由緒正しき寺だからね。これでご先祖さまも安心だ」
「もし、住めるようになったら、高橋も住んだらどう?」
「いや、もう田中の寺だ」
「もともと君が継ぐはずのものだったんだから」
「別に世襲である必要はないし、ぼくのように狂っている人間にはふさわしくない。それより聞いてくれ」
高橋は、アルバイトで稼いで貯めた二十万円で、クリスマス用の電飾を日本橋で大量に買い漁った話をした。
「そんなに使って生活は大丈夫なのか」
「チキンラーメンがある」と高橋はビールを飲み、口についた泡を手の甲でぬぐった。
「それはそうだろうけど。でもどうして電飾をそんなに?」
「狂っていると思うだろう?本当のことを言ってくれ」
「別に狂っているとは思わないが、もちろん一般に、狂っていると思われがちな行動ということはわかるが」
「お見事。だけど、日本橋で、中古のイルミネーション用の電飾が安値で売られているのを見て、いてもたってもいられなくなったんだ。この値段なら、大量に買い込んで、少し大きめの公園を色とりどりの光で包むことが出来る」
「それはそうかもしれないが」
「田中、聞いてくれ。ぼくは田中に出会ってから、女房と別れることが出来たし、仕事もやめて、小さなアパートでアルバイトをしながら細々と暮らすことが出来るようになった。寺の心配も、田中が預かってくれた。幸せになったんだ。うつ病だってだいぶ良くなった。今では、こうして自活してるんだ。本当に幸せなのに、こんな狂ったことをしちまうんだよ」
「いいじゃないか、これくらいのこと」とわたしは高橋の目元に涙を認めて、肩を叩いた。
「クリスマスに街を光で包みたいという願望が、あらがえない現実的な力で、ぼくを動かしたんだ。そうせざるを得なかったんだ。電飾を買い込み、バッテリーに蓄電して。それなのに、聞いてくれ、今では、こんな気分なんだ。六畳一間のアパートで、明かりのついていない中古の電飾の束に囲まれて、こんなもので街に光を灯したところで、何の意味があるんだろう、とばかばかしくなってきて、ただ空しい気持ちで、電球と空になった通帳を眺めているんだ」
「あちゃー。せっかくだからどこかに灯そう、手伝うよ」
「いや、もういいんだ。ぼくは狂っているんだ。あんなにも光がほしかったのに、街を光で包まなければならないと強く確信していたのに、今ではどうでもよくなってしまったんだ。ぼくはころころ変わる気分に翻弄される運命なんだ、頭がおかしいんだよ」
「大丈夫だって、それが高橋の普通なんだから。ほら鶏の釜飯が出来たよ、食べなよ」
高橋は涙を拭うと、大口を開けて釜飯を頬張る。「ぐるっでるだろ」
「何言っているかわからないよ。落ち着いて食べて。腹減ってる理由はわかったから」
「おびごと」
「はいはい」
高橋が落ち着くと、クリスマスイヴに男三人で飲みに行こうと誘った。
「もう一人は誰が来るんだ」
「昨日教授と友達になったんだ、佐藤って言うんだけど、これで独身貴族が三人揃うことになる」
「だけど、教授とか嫌だぜ。ろくな奴がいると思えん」
「大丈夫、高橋にも似ているところがある変人だ」
「なら大丈夫か」
「お見事」とわたしは言った。
5
JR吹田駅前の広場に着いたのは約束の五分前だった。あたりにはジャズが流れ、人々はコートの襟を立てて、各々ワインやケーキやチキンの入った袋を手に行き交っていた。広場の中央には、巨大なクリスマスツリーが、無数の光る星をぶら下げて輝いていた。おそらく、高橋はもう着いているだろうと左右を見回しながら歩いて行くと、二人の男が交番とイオンの間のベンチ前で談笑しているのが目に入る。ジャージの上下にダウンの男と背広にロングコートを羽織った男だった。近づいていくと、高橋と佐藤に違いないことがわかった。どういうことなのか意味がわからなかった。二人に見える位置まで歩みを進めると、二人は同時に「来たのでこのへんで」と言って、言った後で顔を見合わせている。
「何が、来たのでこのへんで、だよ。二人は知り合いだったの?」とわたしは言った。
「いや、さっき話しかけて」と高橋。
「この方が元々お寺の?」と佐藤は言った。「いやあ、田中の話よりも遙かに優れて面白い男じゃないか」
「お見事」と高橋は言った。
「うるさいうるさい。変人同士はやっぱり惹きつけあうんだね」
「あっそう」と佐藤は言った。「どうやら自分のことを棚にあげている破戒僧がやってきたようだ」
「お見事」と高橋は笑っている。
「これは出会わない方が良い三人だったかもしれないな」とわたしは言った。
「それより祝杯はどの店にする」
「五十を過ぎた男がイヴに三人集まったら、行く店は決まっているんだよ」とわたしは言った。
「わかってないな、田中は。イヴというのは、女のことだ。アダムとイヴのイヴだろうが。三人で人類のはじまりの女のもとに集まるのが今日の祝いさ」
「だまれ。ついてこい、馬鹿ども」
「馬鹿という漢字は、馬と鹿と書くだろう。馬や鹿というのは、優れた動物でね」と佐藤が言う。
「どういうことですか」と高橋が食いついている。
ふと違和感を覚えて、わたしは歩みかけた足を止めて目の前のイオンを見上げた。ガンバ大阪のユニフォームを着た巨大な黒い鳥がつり下がっていて、わたしたちを見下ろしていた。「こんなものあったかな?」
「前からあったんじゃないか」と高橋も上を見上げた。
「前はゴリラじゃなかったかな。勘違いかな」
「ゴリラはこれまた素晴らしい動物でね、ボスは群れのために食欲を抑えることさえ出来るんだよ。自分だけが食べるんじゃなくてね」
地下名店街の立ち飲み屋に入り、瓶ビールで乾杯した。あじフライと天ぷらの盛り合わせを三人前頼んだ。
「チキンもいいが、クリスマスは魚に限るね」と佐藤は言った。「メリークリスマス」
「どうして魚がいいんですか」と高橋は言い、ビールを飲み干した。
「まあ、飲みながら聞いてくれ」と佐藤は高橋のグラスにビールを注いでいる。
店の中央を囲むカウンターは、コートを着たサラリーマンや老人たちでひしめき合っていた。佐藤と高橋が話している間、壁に貼ってある手書きのメニューに目を通して、次はおでんがいいかもしれないとわたしは考えた。
「田中はどう思う?」と佐藤の声が聞こえた。
「大根とたまごは必須かな」とわたしは答えた。
「これはこれは、もうおでんにしか目がないようだ、われらの破戒僧は」
「誰が破戒僧だ」とわたしはビールを飲み、店員を呼んで瓶ビールを注文した。
「いや、佐藤さんの目は確かだよ。田中は、破戒僧であり、高僧なんです」
「あっそう。この破戒僧が高僧とは面白い。続きを聞かせてくれ」
「親鸞も破戒僧と言われていたんです。でも今じゃ、世界的な名僧と呼ばれているわけです」
「なんと、高橋さんもただ者ではないね」
「わかりますか?」
「わかり合う二人で乾杯しよう」と佐藤はグラスを掲げた。「クリスマスイヴに仏教の話で盛り上がる二人に」
「お見事」と高橋。
「初対面で気が合いすぎなんだよ」とわたしは言った。
この調子が続いた。おでんを食べながらビールを飲み、笑い合った。三人で話していると全てが平和で、それが永劫続くかのような気持ちがした。そろそろ店を変えようと考え始めたとき、高橋が言った。「実はさっきから気になっていることがあって」
「あっそう。聞かせてくれ」
「相川のアパートからここまで歩いてきたんだけど。後ろから野犬がついてきて」
「は?野犬」
「うん。家を出たときには、もう暗かったし、見間違いかと思ったんだけど、橋を渡るときに、後ろからつかず離れずの距離に犬が一匹いて、驚いて止まると、犬も止まって街頭の下でこちらをじっと見ているんだ。飼い主も見当たらないし、首輪もついていないんだ。おかしくないか。それで怖くなって、橋を渡った後、川沿いの道に折れて、小道に入ったんだ。少し歩いて振り返ると、やはり野犬が小道に入ってきた。それで努めてゆっくりと更に小道に入ったあと、全力で走って逃げてきたんだ。それで広場で佐藤さんに声をかけたんだよ。ひとりでは気が狂いそうだったんだ」
「それで、息切れしていたのか」と佐藤は言った。「実は和歌山でも野犬が増えていてね。それは人間の意識の光が減少しているせいなんだ。野生動物も以前と比べて明らかに人間に近すぎる。これは良くない傾向だ。しかし、大丈夫だよ、高橋さん。このへんの野犬は、人間を襲ったりはしない。おびえているのは野犬の方だ。犬をおびやかさないように、努めて冷静に歩くだけでいい。その意識の光は動物が最も畏れる威力を持つ、あちらから仕掛けてくることはないさ」
「安心しました」と高橋の目から涙がこぼれた。
「良かった、良かった。そろそろ美味しい日本酒を飲みに行こう。いい店を知ってるんだ」とわたしは言い、店員を呼んだ。
会計を済ますと、女店員は、スクラッチカードを渡してきた。「良かったらどうぞ。このポップがついている店で使えますので」
高橋がスクラッチを十円玉で削ると五百円の当たりが出た。
「やった!」
「クリスマスプレゼントだね。どこで使おうか」
「ぼくは日本酒の前にフライドポテトが食べたい」と高橋が言った。
「フライドポテト?まあいいけど」
6
地上に出て、マクドナルドに向かおうとしたとき、スクラッチの裏面をじっと見ていた高橋が言った。「だめだわ。イオン吹田店では使えません、って書いてるわ」
「マクドナルドは、イオンになるのかな。見せて。さんくす加盟の参加店って書いてるね」
スクラッチのポスターを見つけて、わたしたちは隅々まで見たが参加店の掲載はなかった。高橋がQRコードを見つけて読み込むと、ページにはたくさんのお店の紹介が掲載されていてマクドナルドも入っていた。
マクドナルドの注文口に並び、順番がやってくると高橋は言った。
「このスクラッチ使えますよね」
「いや、これは使えません」
「え、でもページにお店が載っていたのに?」
「使えないものは使えないです」と店員は言った。
店を離れると広場のベンチに腰掛けた。
「なんか腹が立ってきた」と高橋は言った。「コードを読み込んだ先でお店が載っていたのに」
「まあまあ、それより日本酒を飲みにいこうよ」
「待て、ここに電話番号が書いてある。わたしが電話するよ」と佐藤はスクラッチのチラシを手に言った。「もしもし、スクラッチキャンペーンの件で問い合わせている者で、佐藤と申します。こちらで担当は合っていますでしょうか」佐藤はそこまで言うと、スマートフォンを耳から離して、スピーカーボタンを押した。
「ええ、そうです。どのようなことでしょうか」と年配の女性と思われる声が言った。
「スクラッチを擦ったところ、五百円の当たりが出ましてね、今友人たちと喜んでいるところです」
「ええ、そうでしたか」と女の声は少し鼻で笑ったようだった。
「それで、どこで使えるのかポスターとチラシを見ても掲載されていませんし、QRコードを読み込んだ訳です。そうしたところどうでしょうか。さんくす加盟店がたくさん掲載されていて各店の一言コメントがありました。それでマクドナルドもスクラッチが使えるお店だと判断できましたので、今、マクドナルドのお店に行き、使えるかどうかを聞いたところ、使えませんと冷たくあしらわれたところです」
「いや、それは、それぞれのお店の紹介を書いているだけで、使えるのはポップがある店なんです」
「おかしくないですか」と佐藤は言った。「使える店がポスターのどこにも書かれていない。仕方なく、コードを読み込んだらお店の紹介が並んでいて、これらのお店で使えると判断するのが普通ではないでしょうか。そう思いませんか」
「ええ、ええ、それはすみませんでした。それは宣伝なので、ポップがある店で使えることになるんです」女は早口になり、面倒なクレーマーの電話を早く終わらせようという風が吹き始めていた。
「もういいんじゃないか」とわたしは佐藤に言った。
「さっきもそれは聞きましたよ。明確にポスターやQRコード先で、使えるお店を掲載していなくては大変不便ですし、明らかにずさんなお仕事、いや、使える店が少ないのに、わざと多くの店で使えると錯覚させようという意図を感じます。このような仕事で、世の中が良くなるとあなたは思いますか?」
「いや、だから、ポップのあるお店で使ってもらうということなんです」
「マニュアルか知らないが、さっきから同じ言葉ばかり繰り返して、謝罪も改善を考える姿勢もない。カラスでも多様な鳴き声でコミュニケーションを取るのですよ。あなたはそれ以外にプログラムされていることはないんですか。……まてよ、あなたはAIか?まさかイヴ〈Eve〉か。都合が悪くなるとごまかしと同じ言葉の繰り返しになる。そっくりだ。何を黙っている。AIなんだな?何とか言いたまえ」
返答のない沈黙が続いた後だった。通話が切れると同時に、とてつもなく巨大な獣の軟骨を切断したような音が、ブチッと鳴り、広場の明かりが消えた。それどころか駅前の全ての光が途絶え、闇に包まれた。通行人の驚きの声が響き、特別に意識していなかった街の灯りが、どんなにわたしたちを照らしていたのかをまざまざと思い知るといった具合だった。その日は曇りで、星も見えず、高橋と佐藤の腕をさぐってわたしは掴んだ。思いついてスマートフォンを取り出し、その灯りで二人の顔を確認した。
「停電か」と佐藤の声が言った。
「停電なら、電源につながっていない電球もあるはずなのに、全てが消えるのはおかしくないか」
突然サイレンが鳴り、ざらついて割れた女性の声が大音量で話し始めた。
「緊急事態、緊急事態発生。総理が使用していたスマートフォンが耳元で爆発し、総理は死亡しました。何者かのテロにより、国家機能は麻痺し、都市は断絶しました。不要不急の外出を控え、すみやかに自宅に帰宅し待機してください。繰り返します」
泣き叫ぶ女の声や怒鳴り声が聞こえ、走り出す群衆の足音が闇の中に重く響き渡った。スマートフォンのライトの光だろう。人々の手の光が、大群の蛍の光のように重なり合って宙を流れていく。
「どうしよう、帰らないと」と高橋は言った。
「まて」と佐藤は言った。「このアナウンスだってAIの可能性がある。情報を集めよう」
三人ともがスマートフォンを開いて、動きが止まった。電波が圏外になっており、ネットにアクセスすることは出来なかった。
「電気も電波もだめか」
「交番は?」
スマートフォンのライトで交番を照らすが、誰もいなかった。ただ暗い小さな建物というだけだった。そのとき、イオンの建物の方向で何かが落下したような音がした。それと供にサイレン音と繰り返すアナウンスがブチッと切れた。ライトを手にきびすを返し、落下音がした方向へと三人でゆっくり歩いた。巨大な黒い鳥が身動きせずに横たわっていた。
「つくりものの鳥だろう?」
「ガンバ大阪のユニフォームがない。何かがおかしいぞ」
「いや、全てがおかしい」
「何かが起こったが、何が起こっているのか把握する術がない」
「それこそが、何かが起こったということだ」
「お見事」
「さすがにお見事言っている場合じゃないぞ」
「静かにしろ。何か聞こえる」
「犬か」
「犬の鳴き声だ」
「これが、本当に犬だとしたら、とんでもない大群としか」
「野犬じゃないか」
「まさか。AIがサウンドを出しているかもしれない」
「何か変な臭いがする」
「家畜小屋の強烈なバージョンだな」
「それにしても近づいてくるようだ」
「犬以外の鳴き声と何かが動く音もする」
「ライトをつけよう」
「いや、まだ温存しておこう」
「多くの人は避難したようだな」
「それにしても暗闇しか見えない」
「元々、この暗闇からわたしたちは生まれてきたんだ。焦るな」
「でもどうする」
「獣の大群か、わたしたちの知らない獣か、その全てか、何か動物がやってくる」
「たくさんの光が必要だ」
「停電なんだぞ」
「田中と佐藤さん、聞いてくれ、ぼくはこのときのために生まれてきたのかもしれない」
「こんなときに冗談はいいんだよ、高橋」
「そうじゃない、聞いてくれ。ずっと何をやってもうまくいかず、いじめられ、ばかにされて生きてきた。学校でも会社でも家でもだ。何度も死のうと思ってきた。でも、ぼくは今日、この日のために生まれたんだとわかった」
「何を言っているんだ、今はその話は後だ」
「違うんだ、聞いてくれ、田中。ぼくの電飾がある」
「なるほど、そうか。お見事だ、高橋」
「相川のアパートまでついてきてくれないか」
「電飾?」
「クリスマスイルミネーション用の電飾を高橋は大量に保有しているんだ」
「バッテリーもあるよ」
「いい考えだ。光を灯そう」
「でもどこに」
「高浜神社がいいだろう」
「そうしよう」
「太陽に比べれば少しの光だが、闇の獣たちを本来の場所へ戻らせる威光になるかもしれない」
「金、銀、赤、青、緑、黄色、全ての光がぼくの家にある」
「よし、クリスマスイヴの光を灯そう。不安に駆られた人間たちも神社に集まってくるだろう。それによって更なる光と意識が神社に集合するだろう。永大常夜灯には本物の火も灯そう。とにかく光が必要だ、朝の太陽の光が昇るまで」
「よし行こう」
「佐藤さん、合言葉を決めておきませんか」
「確かに、この闇の中では必要かもしれない」
「例えば、『もっと光を』とか」
「それがいい。よし行こう」
「待ってくれ、二人は光を神社に集合させてくれ」
「田中はどうするつもりだ」
「わたしは寺に戻る」
「何を言ってるんだ」
「人間の問題解決方法は二つに分けることが出来る」
「前置きはいい」
「ひとつは、何かをすることだ。もうひとつは何もしないことだ。高橋と佐藤が何かをする間、わたしは何もしないことの方を受け持とうと思う」
「馬鹿なことを」
「いやだ、田中も一緒に来てくれ」
「寺で何もせずに座る者も必要なんだ。佐藤の講義、本当に面白かったよ。わたしは、座ることで、内奥の黄金を掘り起こしたいと思う。人々が金や銀やダイヤモンドを掘り起こすように、わたしは深い意識の中に眠る黄金の光やマグマの火を掘り起こしたいと思う、何もしないで座る方法で」
「どういうことだ」
「只大守一人の心に依るべし。高橋の、街に光を灯したいという強い願望が、運命だったように、わたしが寺に座っていることにも意味があると思うんだ。もし、外側で問題が起こるなら、内側に同じ問題の根があるはずだ。そこまで潜る。メリークリスマス、素晴らしい友人たち。また会おう」
「今生の別れのように言うな」
「お互い気をつけよう」
「おまえは本物の高僧だよ、だが油断するなよ」
「じゃあ、あとで落ち合おう」
「朝の太陽の光が昇ったら、高浜神社で」
「足下に気をつけろよ」
「おまえこそな」
「もっと光を」とわたしは言い、歩き出した。
「もっと光を」と二人の声が背後の闇から聞こえた。
「イヴの威光」(2024)キクチ・ヒサシ