フェリーニ「道」(1953)
2016/07/09
フェデリコ・フェリーニの「道」(1953)をツタヤで借りてきて観た。借りる時に店員が言った。「これは字幕がございませんが大丈夫でしょうか?」
「え?字幕がないの?参ったな。僕はポルトガル語とアイヌ語ならリスニングできるけど、イタリア語はちょっと無理だな、こりゃ」と私は言った。あまりの驚きに声がでかくなってしまった。
「あ、すいません。字幕じゃなくて吹き替えがないんです」と店員は頬を赤らめている。目はどこかあらぬほうに向けられている。下唇が分厚い。情が厚いのだろう。
「吹き替えで映画を見るの君は?」
「映画は見ないんです。嫌いなので」と店員は言った。
「あっそう」と私は言った。
フェリーニの「道」。この映画の細部が好きだ。細部。というのは、たとえば、主人公の女性は(主人公にしておこう)少ない金で芸人に買われてしまう。売られてしまう時、母は泣きながら、無理強いはできない、とか可愛そうな子だとか、なんとか言いながら娘を売る方向に持っていく。うまく言えないな、見せかけは泣いているけれど、言葉は裏腹になっている、そういうセリフを母親は言う。そこが可笑しい。それはリアルで、この世をどう見ているかという作家の視線が表出する最初の場面でもあり、なるほどな、たいした奴だなフェリーニはという感じになる。まあこんなことを言葉でくどくど書いても仕方ないが、続ける。男の芸人は裸になって、細い鉄の鎖を胸に巻きつけて、それを胸の力で外す芸をしている。あんまりすごそうに見えない芸だ。そして、その芸を男は何年も続けている。それがまた可笑しい。どうでもいい芸で暮らしているという感じ。途中で、無意味にその男をからかう綱渡り芸人が出てくる。この無意味なところがすごい。彼は無意味に人をからかいたくなる。ここがいい。
「石ころだって役に立つ。この石が無益なら全てが無益だと思う」という内容を綱渡り芸人は主人公に言い、続けて「不細工な君でも役に立っている」と言って笑う。こういうセリフが光っている。鎖芸人は綱渡り芸人を殴って殺してしまう。鎖芸人は、殺したことよりも、早く隠さなくちゃとあわてる。後で、主人公が殺人を目撃したことで精神不安定になっている時に鎖芸人は「大丈夫だ。誰にも見られていない」という。こういうセリフ一つで、この鎖芸人が主人公と全く違う人間として立ち上がっている。凡庸な映画だと、作家の視点が低いために「悪かったとは思うが仕方なかった」とか言うと思うのだが、いきなり「誰も知らない!」とこうくる。ここがいい。修道院に泊めてもらった時にも、鎖芸人はその中の物を夜に盗む。女主人公はそれを知っているので朝になって泣いているし、気まずさを感じている。でも鎖芸人は「ありがとうございました。貧乏な旅芸人には助かりました」と笑顔で挨拶なんかしてる。そしてそれは誰にも裁かれない。そういう世界観を、視点を、フェリーニは鮮やかに描く。女主人公は無垢な魂を、良心をこの世界で代表していて、それは弱り、傷つき、鎖芸人に置き去りにされて死ぬ。鎖芸人はエゴを代表し、綱渡り芸人は陽気な天使というところ。そして、最後には物言わぬ海が白い波をひらめかせている。彼らが死んでも生きても、全く変わらずそこにあり続ける海。人為を超えた世界が広がり、人は砂浜に膝をつき、自らの愚かさと無力を思い知るように砂を握り締め、嗚咽する。
フェリーニ (ガリマール新評伝シリーズ―世界の傑物)
ベニート メルリーノ 祥伝社 2010-09-13
|
道 Blu-ray
ジュリエッタ・マシーナ 紀伊國屋書店 2014-03-22
|