キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

シェイクスピア

シェイクスピア「お気に召すまま」(1599)

2016/07/09

シェイクスピアの「お気に召すまま」(As You Like It、1599年)を読了した。シェイクスピアというと、あんまり有名すぎてなのか、映画で観たりするからなのか、手に取ることがなかったのだが、モノレール文庫という名の、モノレールの駅に設置された貸し本の中から、この「お気に召すまま」を取ってみた。(他にはまともな読み物はなかったのだ)戯曲というのは、小説と違って、舞台を想像しながら読むようなところがある。しかし、舞台の上で終わるものならば、作品は狭いものになる。この「お気に召すまま」の中でも、舞台を飛び越えて、というか時代を飛び越えて、人間というのは変われば変わるほど、変わらないかもしれない、と思わせてくれるところが、よかった。四百年程度だと、変わらないんだろうな、と思った。そして、いつ生まれようが、机に向かって書く、という行為の本質は変わらない。シェイクスピアは優れた物書きだと僕も思った。評判に値する。新潮文庫で読んだのだが、解説が面白かった。第一に、シェイクスピアは先人の遺した歴史や物語から材を取り、ドラマに書きかえた。第二に、鋭い人間観で、登場人物の性格を複雑で厚みのあるものにした。第三に、作品全体のトーンをシェイクスピア独自のものにかえた。

人間の表現や文化が、受け継がれていくことで、ほんの少し新しくなっていく感じが、面白い。それから、シェイクスピアが大衆も受けさせながら、通にも受けるようにと、様々な練りこみをしているというのも興味深かった。作家性と娯楽性の融合。出だしからして面白い。「忘れもしないが、アダム、それはこういうことなのだ、死んだ父がこの俺に遺してくれた金は、ただの千クラウン、だが、お前も言うとおり、父の祝福を受けて家督を相続した兄は、俺を立派に養育するように命じられている、そこからなのだ、俺の不幸の始まるのは……すぐ上の兄のジェイキスは大学に行かせてもらう、成績も良いと大層な評判、それに引き換え、この俺はこうして百姓の子並みにもっぱら家で躾を受けている、もっとはっきり言えば、何も躾を受けていない、そうだろう、誰がこれを紳士のための躾と言える、羊飼いが羊を躾けるのとどこも違わないではないか?うちの飼馬の方がまだしも大事にされている、旨い物を食って良い毛なみをしているばかりではない、色々な事を仕込まれている、そのためにわざわざ高い金を払って調教師を雇っているくらいだ、ところがこの俺はどうだ、肉親の弟であるというのに、兄の庇護を何一つ受けていない、ただ体が大きくなっていくだけのこと、掃溜めのごみを食って生きているうちの牛だって、それくらいの恩は受けているというものだ……」この語りの面白さは、カフカやドストエフスキーや夏目漱石に通じる。こういう語りが頻出するのが楽しい。

主人公と言っていい、オーランドーが勇敢で知恵があるために、兄に追放されることになったとき、付き人のアダムが、へそくりのようなものがあると言い、オーランドーのお供すると申し出るのだが、その心性は、夏目漱石の「坊っちゃん」における清を思い出させる。オーランドーは、「おお、ありがとう、お前を見ているとよくわかる、昔はあった実直な奉公というものが、その頃は義務のために汗水たらしたという、報酬のことなど考えもせずに!お前は当世流には合わない人間だ、今では、誰もが立身出世目当てにしか働かぬ、そのうえ一度目的を遂げてしまうと、その途端にもう奉公は止めだ。お前はそうではない……」これは「坊っちゃん」でも感じたが、現在でも全くこの通り通用するセリフだ。二千年代の東洋の島国でも、全くこの通りですよ、シェイクスピアさん!以下は冗談としても、書かれている体裁だが、この痛烈さが心地良い。「全世界が一つの舞台、そこでは男女を問わぬ、人間はすべて役者に過ぎない、それぞれ出があり、引込みあり、しかも一人一人が生涯に色々な役を演じ分けるのだ、その筋は全場七つの時代に分かれる……まず第一に幼年期、乳母の胸に抱かれて、ぴいぴい泣いたり、戻したり、お次がおむずかりの学童時代、鞄をぶらさげ、朝日を顔に、かたつむりそっくり、のろのろ、いやいや学校通い、その次は恋人時代、溶鉱炉よろしくの大溜息で、惚れた女の目鼻称える小唄作りに現を抜かす、その後が、兵隊時代、怪しげな誓い文句の大安売り、豹のような髭を蓄え、名誉欲にとりつかれ、その上、無闇と喧嘩早く、大砲の筒先向けられながら泡のごとき世間の思惑が気にかかって仕方がないといやつ、その後に来るのが裁判官時代、丸々肥えた鶏をたらふく詰め込んだ太鼓腹に、目つきばかりが厳しく、髭は型通り刈り込んで、もっともらしい格言や月並みの判例を並べ立て、どうやら自分の役を演じおおす……六番目はいささか変わって、つっかけ履いたひょろ長のもうろく時代、鼻には眼鏡、腰には巾着、大事に取っておいた若い頃の下穿きは、萎びた脛には大きすぎ、男らしかった大声も今では子供の黄色い声に逆戻り、ぴいぴい、ひゅうひゅう震え慄く……さて最後の幕切れ、波乱に富める怪しの一代記に締めくくりをつけるのは、第二の幼年時代、つまり、全き忘却、歯なし、目なし、味もなし、何もなし」

「大層愉快でした。もっとも正直なところ、一人にしておいてもらったほうがなお有り難かった」
「こちらもご同様。しかし、一応仕来りどおりお礼を申し上げましょう」
「ごきげんよう。またお目にかかりましょう。出来る限り、たまにね」
「今後とも、せいぜい、赤の他人であるよう心掛けたいものです」
「まあ、木の皮に恋の歌など刻み込んで、これ以上、木を痛めないで頂きたい」
「この世に生をうけているものは、たとえ虫けらでも責めようとは思いません、私自身を除いて。自分の事となれば、確かに間違いだらけの人間ですからね」
「その間違いの最大なるものは、恋をしているということだ」
「その間違いだけは、あなたの最高の美徳とでもとりかえたくない」
「実を言うと、我輩は阿呆を探していたのだ、そうしたら、あなたにぶつかったという訳さ」
「阿呆なら小川で溺れている。水の中を覗き込んでごらんなさい、見えるから」
「そこに見えるのは、我輩の顔だけさ」
「それがつまり阿呆、いや、泡かもしれない」
「女を貰えば、その抱き合わせに口答えも一緒に貰う覚悟が肝心、舌のない女を貰うなら別だけれど、そう、自分の過ちを夫のせいに出来ないような女が居たら、そんな女には子供の面倒は見させられない、任せて置いたら阿呆に育て上げてしまう
「真実が見かけどおりのものならば、お前は確かに私の娘」
「真実が見かけどおりのものならば、あなたは確かに私のロザリンド」
「目に見える姿形、それがそのまま真実なら、ああ、どうしよう、私のいとしい人、もう二度と会えない!」

会話がすごくいい。ただ、登場人物全員が、この調子なので、(戯曲であるから、俳優の姿形に依存するというのはあるが)読むだけだと皆同じ人物、シェイクスピアを想起してしまう。劇の外で、重要な出来事が起こり、それが後から知らされる形であるので、その点ではカタルシスが感じられない。筋書きよりも、恋愛であるとか、滑稽な会話がこの「お気に召すまま」では、見所、読み所になっている。ロザリンドが男装をしているために、オーランドーは目の前の男が実は恋焦がれている相手だとは気付かない。この滑稽。「目に見える姿形が、それがそのまま真実なら」真実はしばしば目に見えない。たまたまテレビで「千と千尋の神隠し」を見ていたのだが、魔女が自分の溺愛している子供が、ネズミ?に姿を変えられているのに、気付かないというのがあった。目に見えるものが、真実だとは限らないと観客は知る、しかし、目の前の姿形が、なおも観客を揺さぶり、だまそうとする。色即是空、空即是色。シェイクスピアを読む入り口としては良かったが、たぶん、彼の最大の作品ではないだろう、というのは何となくわかった。これからシェイクスピアを読んでいこう。

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