「セント・オブ・ウーマン」(1992)覚悟と決意を持った態度が、意味を超えた対話を誘発し、壁を超えさせる。毒舌のエネルギーが力強い演説へと変容する瞬間。
2016/07/09
映画「セント・オブ・ウーマン」(1992)を観た。邦題は「夢の香り」となっているが、本来通り「女の香り」でいいと思う。アル・パチーノが盲目の元軍人役を演じるのだが、彼はかつての英雄で、視力を失い、毒舌家で、孤独に暮らしている。大学生の男が、アルバイトで盲目の男のガイドをすることになり、彼の気難しさに、困惑しながらも、次第に二人の心が近づいていく。盲目の男は、大学内のいざこざに巻き込まれた若い男の悩みに助言することができる、美女をユーモアで楽しませ、見事なタンゴを踊ることもできる。女の香水を匂いで当てることもできる。彼は、女性が好きで、口説くのがうまく、世慣れた人物である。ただ、ある事件で盲目となり、心が荒れ、家族にも嫌がられてきたことが示唆されるのであった。
見所は、 盲目の男と目の見える男、世慣れた男と純朴な若い男という組み合わせが、お互いに無いものを補い合って、心を通わせていく過程である。そして、真の対話が生まれるときは、危険を伴うのが当然であるにしても、二人はぎりぎりの所で、自らの真実の心でぶつかり合う。だからこそ、二人の心は、流れる。流れてしまえば、その固定を通り越してしまえば、心は新しい流れに入っていく。古い心の状態は破壊され、新しいものがそこに流入してくる。一対一の対話が、多くの映画で見所のシーンのひとつになっていることは、わたしたちの日常において、さけられがちなものを示しているかもしれない。そして、対話において、意味を超えて、覚悟と決意を持った態度が、真実の自分であろうとするときに放たれるエネルギーが、その交流こそが、人を癒すように見える。決死の覚悟、それがむしろ生を呼び込んできて、再生するのだ。
毒舌、言葉と思考の鋭さが毒となっていた男のエネルギーは、最後になって、大学生の男を助けるために使用され、そのエネルギーは、説得力があり力強い演説へと変換され、人の心を打つ。同じエネルギーが、男にはそもそもあったのだ、ただそのエネルギーの向きが、変換されて、今、美しく力強い言葉となって放たれる。 男性原理が、低い所で使用されて、暴力的となっていたものが、高い言語能力として昇華されたとも言える。攻撃性は、活動性に、意味を創る言語能力へと昇華される、それをアル・パチーノという類まれな俳優が演じたことで、迫真のものとなっている。人はそれを目撃したとき、彼はひとが変わったようだ、と言うのかもしれない。