黒澤明「羅生門」(1950)半壊している首都の門。内的真実の多層性、魂の門の破壊跡、物語を受け継いでいく人間の力。
2024/08/13
黒澤明「羅生門」(1950)を観ました。黒澤明が、人間の業を描いてきて、内的真実をイメージで描いてきたことを思うと、この「羅生門」を撮ることは、黒澤明の運命だったのだと言いたくなります。芥川龍之介の「羅生門」と「藪の中」が原作となっていますが、芥川のこれらの作品は、「今昔物語」を下敷きにしており、幾人によって受け継がれてきた、人間の業というものを普遍的レベルで取り出している物語だと言えます。それが、黒澤明によって、具体のイメージとなって表現されたとき、圧倒的なのは、あの半ば崩れた羅生門の絵です。あの門だけで、あの門が象徴してくるイメージだけで、打ちのめされる迫力があります。羅生門は、平安京の門です。日本の首都の門です。それが、あのようにどしゃぶりの雨の中、半壊している映像の凄みが、迫ってきます。あの門の映像だけで、やられてしまいます。この門が、全てを物語ってしまっています。
そして、三船敏郎が演じる盗賊は、野性的で、本能エネルギーに溢れており、「七人の侍」(1954)の菊千代(三船敏郎)の原型は、既にここで完成しています。この驚くほどのエネルギーに満ちた三船敏郎がいなければ、この映画は成り立たないでしょう、このような演技は、本気でなければできない、本気でもここまで野生エネルギーを引き出すレベルに自分を持っていくことは至難の業であります。強烈な人物、この門のイメージ、そして、人間の主観を、多層レベルで捉えているため、話を事実のレベルで聞くと、どれが本当なのかわからない。人間の心は、不可解で複雑であり、同時に様々な心が湧き上がり、それらを切り捨てて、ひとつの現実を共有しようとしているように整理されてきた流れがありますが、その鍵を一度開けてみれば、恐ろしい淵が現れるものです。内的真実としては、全てどれも正しい。人間の主観、見識にはレベルがあり、同じ絵を見ても、何を視ることが出来るかは、異なってくる。しかし、人間の見識が高まると、同じようなレベルに辿り着くことは、人類の遺産が物語っていて、このような前提は忘れられやすいですが、わたしたちの主観は、高めることによって普遍的なレベルに達するようです。数々の芸術家たちが、同じような見識、ビジョンに立っていることが、このことを証明していると言えます。そうして、わたしたちは、そういうものに触れたとき、一流のものに触れたと感激し、自らの見識を高める材料としていきます。映画や本や芸術作品は、魂を触発し、人間を高め、教育し、癒します。現代では、一流のものに安価に触れることが出来ます。本当にありがたいことです。内的資産として自らに蓄積され、それは誰にも奪われない、なくならない、本物の財産となっていきます。この映画を撮ったとき、社長は試写で観て、「こんな映画は訳わからん」と席を立ち、責任者を左遷などした後、「羅生門」がヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞した話は有名ですが、世界の賞賛を受け、数々の映画監督が名作として挙げる、今では人類屈指の傑作のひとつとして評価が定まっている「羅生門」も、日本公開当時は、それほどの評価を受けなかったそうです。そして、前述の社長は手の平を返して、「羅生門」を自らの手柄のように話して回ったそうです。まさに「羅生門」のような話だと黒澤は述べているのも面白いです。
「日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった。その日本映画を外国に出してくれたのは外国人だった。これは反省する必要はないか。浮世絵だって外国へ出るまではほとんど市井の絵にすぎなかったよね。我々は、自分にしろ自分のものにしろ、すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな? 『羅生門』も僕はそう立派な作品だとは思っていません。だけど、『あれは まぐれ当たりだ』なんて言われると、どうしてすぐそう卑屈な考え方をしなきゃならないんだって気がするね。どうして、日本人は自分たちのことや作ったものに自信を持つことをやめてしまったんだろう。なぜ、自分たちの映画を擁護しようとしないのかな? 何を心配してるのかなって、思うんだよ」黒澤明(Wikipediaより)
人間が数々の戦争で起こしてきたことは、美しい魂の門の破壊だったのかもしれません。人類が何をしてきたのか、人間とは何なのか、そうして、わたしたちは、どう生きたいのか、どのような創造の道がありうるのか、黒澤明映画は、先の社長が求める興業的な「映画」などではなく、本物の芸術の力をわたしたちに与えてくれます。崩れかけた羅生門が、わたしの心を強く魅惑するのは、おそらくは、ぴったりくる心のイメージが、そこに見える形になっていることの感動なのかもしれません。あるいは、素晴らしい仕事に接すると、心が喜ぶのでしょう。そして同じ大地に生きる人間として、この島の歴史に、黒澤明に、芥川龍之介に、今昔物語に、平安時代に、つながっている感動が打ち寄せてくるのかもしれません。「羅生門」で何が描かれているにせよ、物語を紡ぎ、受け継ぎ、伝えようとする人間の力が存在することも同時に伝わってきて、わたしは偉大な先人に対するリスペクトと喜びを今、感じています。