女性原理と男性原理3「息子でいることを期待され自立を阻まれる、母性社会の病理」
2016/07/09
女性原理と男性原理の3回目である。前回は、女性原理と男性原理を図式的に区別し、そのような区別が男性原理のハタラキであり、その分けるという合理思考の限界、身内とよそ者を分け、敵と味方を分け、勝者と敗者、西と東を分けることが、戦争、人間関係の問題へとつながっていることを書いた。合理思考によって、わたしたちは飢えと寒さをしのげる所まで、物質を操作することが可能になったが、その科学文明、合理意識は、超えていくことが出来る。少々本題からずれた訳だが、女性原理と男性原理を区別し、図式的に把握することは、最終地点ではなく、過渡的に必要なことであると言いたいのだと思う。
河合隼雄は、「母性社会日本の病理」という著書で、母性と父性を対比させ、東洋と西洋を対比させている。母性と父性は、男性原理と女性原理に含まれるもので、わたしの中では、 男性原理(父性、息子性)女性原理(母性、娘性)と把握している。河合隼雄の著書における、母性と父性の対比を図式的に以下に示す。
母性 / 父性
包含 / 切断
感情同一 / 個性尊重
育てる / 鍛える
吞み込む / 破壊する
母性は、包み込み、感情的に一緒になる性質であり、それが育てるというプラス面と、過保護的に、呑み込み、自立を阻むマイナス面ともなる。河合隼雄は、日本が母性社会的であり、外から西洋の父性文化を輸入し、科学文明によって表層を覆ったが、責任権利意識が薄く、自己主張はするが責任は取らない言った者勝ちが増え、個性を強めようにも出る杭は打たれ、いつまでも息子でいることを期待され自立を阻まれる、母性社会の病理と混乱について書いている。彼自身が、心理療法において、一対一の個人対話をする中で、社会の影を数多く聴いてきた実体験から導き出されたものだろう。
わたしは、あるデパートでエレベーターに乗ろうとしたところ、店の婦人が、エレベーターのボタンを押して、案内してくれたのだが、その母性的なサービスが嫌でしょうがないときがあった。(そういう時期があったのだ)わたしはその頃、男性原理を鍛え、自立しようとしていたのだろう。その為、先回りして、息子に対する母親のようなサービスを当たり前とする、社会に渦巻く母性の負の面が、ありありと感じ取られていた。責任を持った主体として、個人として、自ら選択して行動しようというときに、余計な手が伸びてくるのである。これがいわゆる過保護であり、保護する当の本人は、悪いことをしているとも思っていない。善意の侵入は、夜叉の顔をしており、自ら選び、自ら行動し、責任を取る主体であることを阻み、いつまでも息子として留めようする。これが母性の負の面であり、日本社会の至る所で見ることが出来る。男性アイドルが、息子的な面影をしていると、そこに女たちが引き寄せられていくのも、故なきことではない。母性が強ければ強いほど、息子を必要とする。育てたいのである。しかし、それのやりすぎは、育てるどころか、息子を吞み込み、自立を阻み、ひきこもりへと誘う。個性を尊重し、個人として向き合い、鍛えるという父性が、自立するためには必要である。厳しい人などと日本で言われている人は、大体、父性が強い人である。年功序列の会社に入るということは、会社が母親で、会社員とは息子であり、そこでは、全体で全てを決めなければならない、その場を維持することが大事であり、個人的な見解というのは危険視され、皆で一緒にやることが重要視される。個人で決める力を持った主体は、ワンマンなどと呼ばれ、揶揄される。教育現場では、標語のように「個性」と繰り返しながら、「個性」の意味する所がわからない為、「個性」を無視し、同じ学歴競争などに向かわせて、矛盾も感じない。現代日本は、それに対するカウンターが至る所で散見され、わたしはこのことを喜んでいるが、全体としては、この母性の負の面が、渦を巻いている列島である。父性文化に発祥した科学を扱うということは、個人として責任を持つ主体が必要である。原子力発電は、一体、誰の責任で運営されていると言えるだろうか。何かが起きたとき、誰が責任を持つだろうか。責任の所在が曖昧なままで、科学文明の所産を扱うことは危険である。うやむやで、曖昧な言辞で、「申し訳ございませんでした」と頭を下げて見せたときには、列島は吹き飛んでいるかもしれない。合理意識によって管理しなければならない種類の物事を、目先の利益で正しく判断しているつもりなのかもしれないが、利益など全て無意味となるようなリスクであることは、明白なのだが。三種の神器は、テレビや冷蔵庫や洗濯機ではなく、剣と勾玉と鏡であることを、再度認識する機会が、東北震災や九州震災の悲劇によって広く起こったとわたしは信じるが。
河合隼雄の枠組みを借りて、母性と父性を図式的に把握し、個人としてのみならず、社会における母性と父性について簡単に書いた。次回は、母性社会と父性社会を、東洋(日本)と西洋(ヨーロッパ)の比較において話したいと思う。