キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

黒澤明

黒澤明「蜘蛛巣城」(1957)物の怪がそそのかす修羅の道。女性にコントロールされたリーダーの末路。

2016/08/19

黒澤明「蜘蛛巣城」を観た。この傑作は、1957年に公開されている。「羅生門」(1950)「七人の侍」(1954)という世界に響いた名作の後に、このような作品も撮っていたことをわたしは知らなかった。今回初めて観て、いい映画を観た後の高揚で、ぽかぽかして、すかっとして、にやにやしている。「七人の侍」は映画黎明期にしか不可能な、二度と撮ることが出来ないような大傑作だけれども、「蜘蛛巣城」は、非常に現代的にまとまっており、エンターティメントとして優れ、芸術表現として深みに満ち、多くの人達をインスパイアしてきたに違いない広さを感じさせる。城、武具、旗、弓矢や鎧や衣装の美しさよ。主演する三船敏郎の迫力よ。黒澤明映画をあまり観たことがない、という方には、この「蜘蛛巣城」(1957)をわたしはおすすめする。ここには、「羅生門」(1950)や「七人の侍」(1954)も響いているし、それでいて、入りやすいと思う。「蜘蛛巣城」(1957)を観た後で、「隠し砦の三悪人」(1958)「用心棒」(1961)「椿三十郎」(1962)「赤ひげ」(1965)と、この五つの映画を順番に観たら、誰でも面白すぎてはまってしまうのではないかと思う。美しさ、ストーリー、娯楽性、深さ、全て申し分ない傑作群を目にすることになってしまうのだから。

蜘蛛巣城

「蜘蛛巣城」はシェイクスピアの「マクベス」を下敷きにし、能の様式美を取り入れている。面白い試みだと思う。権力争いで、多くの血を人類は流してきた。ちょうどわたしは、梅原猛の「聖徳太子」という分厚い書物を読み終えて、へとへとになっているのだが、蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺したことによって、聖徳太子摂政の流れが出来て、その聖徳太子の子供、山背皇子が蘇我入鹿に兵を向けられ一家全滅する。その蘇我入鹿も、中大兄皇子、中臣鎌足によって宮中で殺害されて、大化の改新が成る。世界中でこうしたことが起こったことは、歴史の示す通りであり、今も変わりなしであろうけれども、それを目撃しているのだという感じを受けさせる、この映画の迫力、リアルさが素晴らしい。

冒頭に、蜘蛛巣城の跡を示す石碑が映る。そして、歌が響くのであるが、こんな感じである。

見よ妄執の城の址

魂未だ住むごとし

それ執心の修羅の道

昔も今もかわりなし

寄せ手と見えしは風の葦

鬨の声と聞きしは松の風

それ執心の修羅の道

昔も今も変わりなし

この歌を聞いていると思い浮かぶのが、松尾芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)」で、これから描かれることは、兵どもの夢らしい、しかもそれは執心の修羅の道であるらしい、ということがわかって、期待感を高めると共に、作品に時間的重層性が加わって説得力が増す効果があると共に、ひとつの枠を設けることになるので、恐ろしい主題を安全にフィクションの中に入れることが出来る。ラストに再びこの歌が流れた時には、全くその通りだな、という気持ちになる。このような視点を入れて重層性を創ることで、森に迷い、物の怪に出会うという不可思議なことも、あまり気にならずに入っていくことが出来る。同空間での時間の移動を描くことは(石碑から過去へ)、一種の催眠効果を持つのだろう、そして、同時間の中で異空間に入るという移動が描かれ(森に迷い、物の怪に出会う)、わたしたちがモニターの前にいながら映画現実という異空間に入り込んでいくという構造が、更に映画内で入れ子になり共鳴しており、深く夢うつつの世界へと誘っていく。

二人の武者が、森に迷い、物の怪に出会う。そして、物の怪は、予言する。いずれ、三船敏郎が、城主になり、もう一人の武者の子供が、後継ぎになると。二人は笑い話とするが、どこか、それは彼らの深層に影響を与える。いわば暗示となる。最後の方にも、城主となっている三船敏郎が物の怪を訪ねる。物の怪は、人間をそそのかす。死体の山を積み上げろと言う。そして、主人公にはわからない言い方で、再び予言する。最終的に、物の怪の予言は全て当たってしまう。娯楽として観れば、物の怪に出会い、己を滅ぼした愚かな人間、という風に見える。より深くは、人間が愚かな権力争いで血を流す、それはどうしてなのかという問いに対して、物の怪という形で描かれている、集合的な無意識のような、人智を超えたハタラキが存在し、それが人間を操っているようなイメージを描いていて、森で物の怪に出会うなんてありえないような感じがするものだが、むしろ物の怪にそそのかされる、ということが、とてつもないリアルのように思えてきて、そうに違いないと思わせられる。そしてこのような物の怪は、わたしたちの心の森に棲んでおり、その修羅の道が恐ろしい。森の中の物の怪というのが、リアルじゃないようで、とてつもないリアルとして迫ってくるのは、単に現実を現実のように描いたリアリズムなどは、むしろ嘘っぽくて、心の現実をイメージで描いて付け加えてこそ、本物の現実となるのだろう。

三船敏郎演じる武者は、大殿を暗殺するなど考えてもおらず、自らの地位に満足している。しかし、奥さんの方が、次第に三船敏郎の心をコントロールし、そそのかしていく。男性の背後で女性がコントロールするというパターンは、歴史で繰り返されてきたことであり、現代では、あらゆる職場や家庭で目にすることが出来る。岡倉天心が書いていたが、大奥の力が強くなると、内側から崩壊していくことが多く、君主が内側を統率出来ていれば、外的の侵入によってしか滅びることはないのだと言う。統率するもの、リーダーというのは孤独である。相談役が欲しくなる。そして、相談役に女性達が食い込んできて、次第に女性にリーダーが操られるようになる。こうなると、内側から崩壊していってしまう。矢面に立たずに、後ろからコントロールするというのは、楽であり、責任の所在も曖昧にしておける。君主をコントロールする女性が、責任のプレッシャがないのを良いことに、自分のやりたいようにやろうとするのを防ぐのは困難であろう、人間の煩悩と業の強さからいって。表面上は、その男がリーダーだが、実際は、女性に影で操られていると周囲の者は気付く。リーダーの求心力は下がっていく。女性の方も、「影のリーダー」であるとか、「影の支配者」である自分にほくそ笑み、組織は、とんでもない腐敗へと進んでいく。責任者と一番親しくなろうと、女性達が争っているのを、わたしはいくつもの職場で、ずっと観察していたことがある。おそらく、責任者と懇意であれば、安全と安心が約束される。そのため、それを求めて女性達は、責任者の心を捉えようとする。心理メカニズムからいって、組織のトップであるということは、女性を惹きつけるようである。そうして責任者の横を得た女性の喜びの顔というのは、ちょっと見ている方が恥ずかしい気持ちがするような、何とも言えないものであった。お堅い人で知られるリーダーが、自分には心を開いていて、まるで恋愛のような仲で、コントロールしているのだと嬉しそうな女性に、そのメールのやりとりを見せてもらったこともあるが、「付き合ったら」と言うと、「そこまでじゃない、これくらいが楽しい」とのことで、男性の方が阿呆なのであった。犬が序列をつけるようなのは、本能的なところに留まっている人間にとっても全く同じのようである。強く決断力のある男が次のリーダーになろうとすると大奥が反対するというのもよくある。コントロール出来ないような男が主君になるのは嫌なのである。しかし、歴史的に見ても、統率者が決断力と強さを持っている場合の方が、内側は収まる。そうでなければ、人間の欲望と傲慢は、際限がなく、私心を自己の内に収められず、組織は分裂と崩壊へと向かう。人格と強い個性のあるリーダーがいなくなった途端に、組織は一気に崩壊する。烈しい怒りの人でもあり、スター選手を従えることの出来る強い個性を持ったファーガソンがいなくなった途端に、同じ選手なのにマンチェスターユナイテッドは弱くなり、聖徳太子亡き後は、蘇我氏一族の驕りと腐敗が強まり、滅びる契機となっていく。公平によく話を聴き、関係を常に維持し、それでいて必要なことは明確に強く表明できなければならない。多くの職場でこのような闘争が行われているが、ひとつには、人間の権力衝動は、自分を守ることに起因している。自分が安全であれば、人の上に立つ必要はなくなる。そのため、どれだけ安全な、空気の良い、風通しの良い場を創るかがまず大事である。ある程度の自立を果たした大人が集まれば、大体はうまくいくものだが、そう簡単にはいかないのは、それぞれコンプレックスを持っていて、人との関わりで問題を起こす。外向的なものは、内向的なものが理解できず、その逆もしかり。お互いに理解し合えない為、虫の居所が悪い。「すぐに行動すればいいのに」と「よく考えてから動けばいいのに」が相反するために、分裂する。感情優位のものは、思考優位のものを冷たいと感じ、思考優位のものは感情優位のものがだらだらと感情を吐き出してばかりいるのに耐えられない。相反するものを取り入れることが出来れば、その者の意識は拡大する。それを手伝うことが出来るのが理想だが、なかなか大変である。仕事をするということは他人との競争ではないこと、個性の違いは人間価値の優劣ではないこと、能力・経験・器の差は人間価値の優劣ではないこと、責任を果たさずに口ばかり動かすことは道理に外れていること、自分が責任を持っていない他人の仕事に口出してはいけないこと等、基本的で当たり前のようなのだが、これが腹に落ちていないものがたくさんいると、ともかく統率者が模範になり、厳しく仕事に打ち込む姿勢を見せねばならない。部下がそれらを学んでいけるように試みなければならない。ふつう、家庭にいるときは、お金の問題があるので、人の欲望にはストップがかかる。しかし、これが会社となると、自分の懐は痛まないので、会社に対して要求ばかりする者もいる。散々会社の悪口を述べて、結局は、その会社にぶら下がって賃金を得て、矛盾を感じない。業務よりも、責任者と懇意になる為に色仕掛けに忙しい者も出てくる。人の仕事は、人間関係である。というのを聞くと、どういう意味かな、と昔は思ったものだが、まさしくその通りで、このような煩悩にまみれたわたしたちが、お互いに手を取り合うということは、高い達成であり、思えば、戦争、日々の争い、すべて人間関係の問題であり、人と人がどのように共にあることが出来るのか、というのは、深く難しい課題であり、日々実践すべき愛の修行なのであろう。ここにも、物の怪が出てきたようで、話は少々脱線したが、「蜘蛛巣城」の大殿になる三船敏郎演じる武者もその奥さんも、修羅の道に囚われて、滅びていく。魔がさした、という言葉があるが、恐ろしいことである。今も昔も変わりなし。自らの腕の中で喜びに鳴いた女性の言葉が心地よいのはわかるが、責任主体が曖昧になるのは危険である。なんとなく曖昧になったとき、プレッシャの中での決断が消失し、なんとなくいけそうな気がして、なんとなく判断して、気付いたときには、どうにも取り返しのつかない修羅の道に入ってしまう。あれ、誰がこんな道に誘導したのか、おそらく物の怪であろう。

-黒澤明