キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

意識

北山修「幻滅論」(2001)読書メモ

● 情緒的洞察
ああそうだったなあ、体験に似て、自分について洞察を深めると、情緒的になり、その瞬間、笑ったり泣いたりという喜怒哀楽の深い情緒体験が起こる。

● 分析後、パーキンソン病
「分析の中では、絶対中立性を維持しなくてはいけない」と叩き込まれた結果、セラピストが、パーキンソン病のような無感情で硬直した顔になる傾向についての警句。

● View-ing together(ともに眺めること)
やまだようこ、「横並びの関係」
・多田道太郎、日本文化の非言語性を、「つながりはなるべく物言わぬが良いのである。物言わぬことで、空間の中にある種の流れが生まれ、時間の中に文化という名の連続性が生まれてくる」

●物見遊山の日本文化の中で、私達は、肩を並べて、横並びで、同じものを眺めるのが「心から」好きなのである。(語り合い、話し合いといった言語的交流と平行する交流なのである)
相互協調的価値観(日本)⇔独立、個人を協調する価値観(欧米)

●箱庭、音楽作品、何にせよ、Joint action Joint attention 二人の間で、共に見ること、眺めることが存在する。

● 二者間内交流(情緒的交流)と二者間外交流
これらを芸術療法は、同時に行っている。これは、大人になってからは簡単にはありえない、母子一体の境地の補償的交流。

●幼い者が、「甘えている」と言われて、反発することがある。甘えているのではなく、積極的に愛している場合がある。

●伝統的精神分析に対して、これらの知見が積み重なってきた。
1言葉によって切り刻まれた心が解体する、病的効果または逆効果があること
2むしろ、比喩や曖昧な表現で間接化することが価値あること
3言語的交流と平行する非言語的交流や情緒的交流が意義あること

● 血のつながり(臍の尾から文字通り)
・ 乳とのつながり
・ 手と手
・ 異性とのつながり
・ 友人と肩や腕を組む
*つながりは、モノや言葉を介した比喩的、象徴的なものとならねばならない。
*母子、恋人達も、「二人だけの世界」から通じることが困難な世界に出て行かねばならない。(出て行った後で、トランスパーソナルなつながり方は存在する)

●対象に対するアンビヴァレンツを噛みしめる体験の通過をクライン理論では、抑うつポジション(Depressive position)の通過と言う。アンビヴァレンツを噛みしめることを繰り返す内に、清濁合わせ呑む関係に安定感と落ち着きが生まれてくる。

●自分の中身を抱えるようになり、覆いとして手に入れるもの
母親の腕の中に抱えられている時にのみ、本来的な自分が「いる」ことになる。やがて、成長に伴ない、その中に収まらなくなり、自分で自分を抱えるようになって、自分は本当の自分を中身として守り、内側に中身を秘密にしておくことになる。そのとき、覆いとして、武器として、交流の道具として手に入れたのが文化であり、多くの言葉である、と言うことができる。

●対象関係の理論化
母子排他的二者関係、あるいは、自他融合的な同一化状態から、開かれた二者関係への流れで描き、時間と共に不安定な関係から落ち着いた対象関係になる、と理論化している。

この三角形の普遍

母   父

● 父親による幻滅
幻滅3(二者関係 対 第三者)
・ 嫉妬する父親の「切るペニス」
・ 両親の性交を目撃する「原風景」
・ 母子利害が衝突する「トイレットトレーニング」
・ 兄弟、姉妹というライバル登場
* 二人だけ、良いだけの関係に、第三者が横から割り込んでくる。

●わかりやすいエディプスコンプレックスのモデル
・ 愛情対象とは、乳児の異性の親
・ 対象側に属す性的なパートナー(同性の親)
・ ライバル(同胞)
*これらが三角関係での嫉妬や幻滅の重要な要因
*逆に父親が無視されやすい、母子家庭や第三者排除の母子関係では、一体化幻想が不必要に維持され、母子が幻滅しにくく、分離しにくいという懸念が生まれる。

●二者関係の幻滅
幻滅1 理想化されたものとは矛盾する対象のもうひとつの側面
幻滅2 内なる幻想に反する外的現実(母親の現実的不在)
*幻滅したことで、楽しいだけが減って、同時に悪いだけの幻想、お化けも減ったのである。

●対象関係理論では、親の仕事には、一体化幻想「きずな」や対象との基本的信頼を育てることが第一にあり、やがて時間と共に、ほどよく非外傷的に幻滅するのが良いとする。
* 二者関係の幻滅においては、基本的対象関係を維持しながら、幻滅1や幻滅2を最小限に食い止める段階的幻滅を計ることが、分析家に求められるだろう。
* 万能感が幻滅することは、同時に現実の価値や希望、楽しみを失わないものであろう。

●臨床家の課題は、患者の理想を引き受けているとやがて、治療者に対しての幻滅が起きてくる。幻滅の相手役として、その受け皿になるという過程で、治療者は原則として「幻滅させるもの」という苦痛な役割を果たさねばならない。「生き残ること」「抱え」「こなすこと」いわば、包容力。コンテイン能力。この「ほど良さ」は、幻ではなくなる。

●対象関係理論から見ると、幻滅3で要請された「去勢する父親」の必然性は後退している。幻想的な一体感や「つながり」の運命を左右するものとして、第一に、幻滅1の全体対象化の困難をこなす相互の包容力、第二に、幻滅2の際に、母子や内外の間を錯覚で満たして開く(聞く)、中間領域の充実。第三に、母子の間を切る父親による幻滅3と三つの重要な要素を挙げることができた。

● 日本語で親というとき、父母の統合された存在であり、厳しい父親像(切る)と優しい母親像(受容的)の双方を兼ねている。水戸黄門「優しく見えても、怒ると恐い」
幻滅0 他者の保証と支えを得て私が成立しているという土台が崩れることもありうる。
幻滅4 私達は皆死ぬこと

● 見るなの禁止の物語
・見るなの禁止の物語「私は対象の消え方が突然であるところを捉えて、悲劇の原因に、急激な幻滅があるということに注目した」「抑うつや心身症、神経症などの病理の起源がここにあると示唆してきた」

● はかなさ、の体得に向けて、設定された文化装置
・ 蛍の点滅
・ 桜
・ 月見、花火
「もののあはれ」を知り、幻滅の悲劇や分離の痛みを共同で嘆こうとしていると思う。

● 面接の基本は、フェイストゥフェイスではなく、サイドバイサイド。
・ 直接的な対話ではなく、何かを介した間接的な対話だということ。
・ 対話であれ、描画療法であれ、イメージ療法であれ、治療媒体を重視するものは、共同注視が基本姿勢だろうと思うが、それは絵画にしても、言葉にしても、紛れもなく文化を担うものだからであろう。

● 居場所を得て、生き残るために、適応という課題をこなす人々は、外的危機を回避するとき、居場所を取り囲む、風土や時代は無視できないわけで、個々の生き残りの方法は、それぞれの外的現実の影響を受ける。身を守る服のように、外と内の間に介在する文化的な事物は計り知れないくらい貴重なものとなる。
・ 公と私
・ 表と裏
・ 適応的と非適応的
・ 本音と建前
*場、および自己または生き方の二重化があり、不連続であるため、「場違い」にならないように、自己二重化の習性があり、「使い分け」の精神で、この混乱や混同によって、幻滅を食い止めようとするのが、物語の中の「見るな」の禁止。

◎意識をどのようなものとして見ているのか
・横向きに並んで、間にあるものを見る(サイドバイサイド)ということが伝統的に日本人が好きなこととして、フェイストゥフェイスが西洋的なものだとしたら、それらは双方の影であり、西洋文化を導入してきた日本は、サイドバイサイドになりすぎている関係の持ち方で問題が生じる、ということがありうる。その場合は、父性的な対応がむしろ必要となってくる。フェイストゥフェイスが個性を認めること、対話することを意味し、これが日本に欠けている態度かもしれない。むしろ、一対一で対話することで、横向きで解決できないことを援助することが求められている傾向がある。そして、対象関係的な問題で、充分な母子一体感を持てなかったものとの面接では、面接の時間が、一体感を得る時間となるか、サイドバイサイドの時間となり、前者では、根源的な一体感を得ることで癒しとして働き、自然治癒傾向が高まる(トランスパーソナルな領域、非個人的な境地を体得している支援者でなければ、不可能であるが)、後者では、母子一体感の代わりとしてのサイドバイサイドで、同じものを見ている情緒的接触と言語交流が、フェイストゥフェイスを求められる場への橋渡し、あるいは、補償となり機能する。あるいは、フェイストゥフェイスの世界(例えば企業)で、他と離れすぎたものを補償し、サイドバイサイドを訓練し、情緒的つながりを回復するということがある。

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