キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

黒澤明

黒澤明「続姿三四郎」(1945)闘争が辿る統一への道。人間の分裂に橋をかけることが出来ない時、祟り神が生じる。

2024/08/13

黒澤明「続姿三四郎」は、東京が焦土と化していく1945年に公開されている。初監督作品「姿三四郎」の大成功によって、続編が求められたものである。柔道の三四郎が、いずれ「用心棒」の三十郎へと発展していくものと思うが、「姿三四郎」ものは、日本の道、武道、柔道、剣道、茶道など、道がつくものの美しさや真髄を描いて、その意味では、三十郎とはまた異なる見所があるものと思う。戦争の最中であっても、芸術に取り組むということは、大事な態度だとわたしは思っている。物資の不足、厳しい検閲の中でさえも、人間の魂は、表現を求める。そして、どのようなことが起きようとも、人間の姿を直視し、それを描くということはやめてはならない。続けなければならない営為だとわたしは信じる。東北大震災が起きたときに、芸術家と称していた者たちが、こんなときに、表現活動をしていて良いのだろうか、と自分自身に疑問を呈し、表現を自粛する動きが一部であったが、逆だと思う。こういう時こそ、本物の表現が必要なのであり、人間と世界を直視する魂の芸術を描かなければならない。むしろ、こう問わなければならなかったと思う。天災や人災が起きたときにも通用するような、人間と世界を直視し、その暗闇から光を取り出すような芸術に自分自身は取り組んでいるのか、と。単にエンターティメントの、喜びの少ない息苦しい社会での娯楽というところを超えて、人の魂を励まし、救済する、本物の表現を生業としているのかどうかを問うべきなのだ。少なくとも、わたしにとって芸術や表現の意味するところは、これしかない。娯楽を目的として出来上がった娯楽など、雲や星を眺めている方がよほどいい。ゴーリキであったろうか、ロシアの作家だと記憶するが、アメリカに連れていかれて数々の娯楽を紹介され案内されたとき、こんなに娯楽が必要ということは、民はよほど喜びのない生活をしているに違いないと嘆いたと言う。

姿三四郎が苦悩する闘争、分裂に橋をかける人類の叡智

黒澤明の「続姿三四郎」でも、前作と同様に、和尚とのやりとりの部分が、大変見所であり、心に残る。この和尚に、日本的な仏教精神が投影されており、非常に美しく、また智慧に溢れていて、ハッとさせられる。姿三四郎は、悩む。彼は強い柔道家であり、名前も知られている。そのために、彼と戦おうとする人間がやってくる。彼は、別に争いたくはないのだ。姿三四郎は、勝ってしまうだろう。そして、その強さは、恐いお化けのように子供たちに歌われたりもしている。争いとは何であろうか。柔道の宗派が争うことに何の意味があろうのだろうか。「続三四郎」の中で、闘争とは統一のために必要な過程なのだということが語られる。つまり、柔道の宗派が争う、そしてより良いものが残っていく。とすれば、姿三四郎が勝ったとか負けたとか言う意味を超えて、それは、より良い柔道が成るために、必要な過程であり、闘争には統一の意味があるのだと言う。このような言説に、姿三四郎は、何かを感じ取る。宗派うんぬんを超えて、戦ってほしいと願う別宗派の男もいて、姿三四郎は戦う方向になっていく。映画の前に座るわたしたちにとっても含蓄の深い言葉である。これは、一種の真実を現して、それは両面の意味を持つ。事が、スポーツであれば、それは良い方向性しか思い浮かばない。しかしながら、これが国家間の戦争の場合はどうだろうか。なぜ、世界大戦が起こったのか、と善悪を手放して視たときに、東洋と西洋、それ以外のすべての分裂にとって、それはやむを得ないことであったのだと思う。人類の進化を信じるわたしとしては、他の形式にそれが変わっていくのを期待しているし、そうなると信じているが、闘争の本質がお互いを分かり合うための過程であり、統一への過程であるということは確からしい、と思うのである。わたしたちの合理社会、パソコン、スマフォなど現代文明は、全てあの戦争で深く接近した西洋由来のものである。戦争から離れた時代に生きるわたしたちにとって、現代の恩恵は、西洋文明と激しく接触したことによってもたらされている。物の怪のようなものが、わたしたち人類に、統一を求めて、そのために、闘争という接触を望むのだろうか。考えると恐ろしい事である。東西の分裂は、強い接触によって補償される。離れれば、離れるほど、分裂すればするほど、それは引き合う。この星が、ひとつの球体として包含されている以上、その引力を人間ごときに跳ね返す手などないだろう。わたしは転校生であった、また何度も新しい職場に入っていって適応することが必要な経験にも恵まれた。その所属集団にとって外部である新人が入ってきたとき、そこには初めこそ、にこやかな笑顔があるが、その後に生じるのは闘争である。転校生がいじめられるということがよくあるのも、そのようなメカニズムだと思う。闘争というのは、人間と人間が真正面から出会うということである。真正面から出会うことによって、相手がどういう人間なのか、何者なのかが初めてわかる。わたしは、全ての職場で、ひとりひとりとそのような接触が終わってはじめて、その組織の中にうまく入ることが出来たと実感した。わたしはそのとき、新人ではなくなり、組織に融合され、内部になるのである。戦いになるということは、相手と自分が異なるという認識に出発する。中央朝廷から見れば、東北は蝦夷であり、従わない敵であると思うから、戦おうとなる。仲間相手に戦おうとはならない。そして、異なるということは、お互いが取り入れるべき可能性を相手が持っている、ということを示している。東北で最後まで抵抗した安倍一族が滅ぼされたが、新しく支配権を得た藤原清衡の妻は安倍一族の血を受け継いでいる。それは長い目で見ると、民族の統一であり、融合であろう。ヘミングウェイが大魚と格闘する男の間に不思議な親密さが漂う場面を描いているが、戦うということは、真正面からの強い接触であるのは間違いないと思う。生命の取り合いは、お互いを見つめ合い、お互いの挙動に注意しなければならない。闘争は、激しすぎる接触だと言えるだろう。男女の愛憎はどうだろうか、同じようなものと思われる。男女は、別の性である限り、惹かれ合い、争い合う、そこにお互いを高め合う可能性が秘められているだろう。闘争と恋愛は危険なものとして、現代社会では、距離を置かれるものとなる。人類は新しい形式を求めている。そうでなければ、ただ距離を取るということでは、それは強い逆流を呼び込み、すさまじいまでの引力が生じて、それらはぶつかり合うことになるだろう。この星の引力が離れているものを強くひとつにしようとハタラクだろう。分かれているものに橋をかけることは、おそらく、理想が高すぎるとか親切とか優しいとか正しいとかそういうものではなく、分裂しているもの、分断されているものは、結びつけるようにしなければ危険な為だと思う。そうでなければ、それは祟り神になって、人間の深層で暴れまわり、それを止める手立てはない。そのことを広く示したのが、世界大戦の凄惨な現実であると思う。異なるものをAとBに分けて、そこに通路がないとき、それは激しい接触へと帰結する。それは、人間ひとりの心理の動きと全く同じであり、職場で家庭で人間全員が体験していることだろう。AというポジションとBというポジションがあるが、それらは、ひとつの円の中のポジションであるという見方、円環的な見方が人類の合理思考の諸刃を超えていくとわたしは思う。職場、家庭、全ての人間関係に取り組む個人の叡智の高まりと集積が、人間の集団的な心理の動きに対する洞察と叡智を磨いていくものと期待する。AとBがあまりにも異なるものと見え、そこに橋をかけることが出来ない状態に留まれば、それは激しい濁流によってダムを破壊してでも、接触によって通路を確保しようとする、恐ろしい深層心理の動き、この星の引力の動きがあるのはもはや論をまたないとわたしは思う。悲惨な事件と呼ばれるものは、孤立化した個人の心の深層、魂がタタリ神に乗っ取られるせいだろう。全ての事件、出来事は、個人個人の生活の集積に全てつながっている。ひとりひとりが、対人関係の中で、このことを意識できるような時代には、夢の時代が来るだろう。三千年先にはそういう時代がくるとわたしは夢想しよう。闘争は統一のための過程であるとしても、それはスポーツや議論や何らかの活動へと昇華していくのが良いのだろう。この終戦の年に撮られた「続姿三四郎」は、宗派の争いという形でありながら、より広いものを射程に収めていると思う。日本に世界の縮図を見、ひとりの人間心理に、世界の縮図を見るように、密教的曼荼羅世界観が、この先の人類を牽引することと信じる。(タタリ神に追いかけられるアシタカ「もののけ姫」)

タタリ神

形式を超える姿三四郎

「続姿三四郎」でわたしが特に好きな和尚のセリフがある。姿三四郎は、道場のルールがあるので、相手と戦うことが出来ないと嘆く。そのとき、和尚はこんな意味のことを言うのである。「道のための形式であろう。その道のために形式を破ることがなぜいけないのか。これを悟ることが出来たら、また来るが良い」大体、人間は、このことを忘れて、本質のための形式なのに、形式の方を大事にしてしまい、やがて本質が消え失せて捉えられなくなり、腐敗していくということを繰り返している。一体何のための形式なのか、その形式には、本体があって、その本体由来の形式なのに、本体を忘れてしまい、形式の方に目を奪われて、形式を創造的に変化させることを恐れるようになっていく。このような和尚のセリフが光っており、「姿三四郎」シリーズがわたしは好きなのである。

-黒澤明