キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

意識

「東洋の心理学」R・フレイジャー J・ファディマン吉福伸逸訳。読書メモ

自己成長の基礎知識3「東洋の心理学」
R・フレイジャー J・ファディマン 吉福伸逸訳

カリフォルニア州にあるトランスパーソナル心理学研究所の教科書の一つとして使われている第三巻にあたり、スーフィズム、禅、ヨーガという三つの東洋の伝統に焦点が当てられている。(この他にも、トランスパーソナル心理学者の多くが、上座仏教のヴィパッサナを実践、また、チベット密教の影響も大きい)

●東洋的修練における道徳と価値観
西洋パーソナリティ理論との違いは、価値観や道徳的考察、一定の霊的な基準にそった生き方に重きを置く点。しかし、偶像破壊的ともいえるほど実際的な見方をとっており、道徳的規範を持つのは、意識および総体的な健康にとって好影響を及ぼすからで、外面的な配慮のためではない。(体面的な善や作為ではない)

●ある禅話
さすらいの僧が木の仏像を燃やして暖を取っているところに、別の僧がやってきて冒涜行為にあわてふためく。
「なんということをなさるのだ」
「これを燃やして仏舎利をとろうと思いましてな」
「仏像から仏舎利などとれるものか」
「ならば、ただの木ですから燃やして暖をとりましょう」

東洋の体系は、西洋心理学の諸体系同様、人間経験の注意深い観察に基いたものである。観念、行動、身構え、訓練が及ぼす、心理的・精神的・霊的効果について何世紀にもわたる経験主義的観察を積みあげた上に成り立っている。

伝統の核心は、創始者たちの個人的な体験と洞察を基盤としている。彼ら創始者の洞察が、新しい設定、異なった文化条件、新しい対人的状況といったものと絶えず突き合わされ、洗いなおされ、修正され、伝統が築かれていく。ヒンドゥー教、仏教、イスラム教は今日、何百万という人々のものの見方を代表している。

●東西の観点
西洋心理学者は、自我の強化という観点から成長を論ずることが多い。自律性や自己決定力や自己実現能力の増大、神経症過程からの自由。東洋の伝統では、トランスパーソナルな成長、自我やパーソナリティを超えた成長に焦点を合せている。東洋の諸体系の吟味評価は、西洋諸理論の評価と何ら変わるものではない。禅に含まれる概念や視座を活用するのに仏教徒になる必要はないし、呼吸やリラックスの訓練をするのにヨーガ行者になる必要もない。

■ヨーガとヒンドゥー教の伝統

・「ヨーガ」はサンスクリット語で「つなぐ」「一つにする」を意味する。ヨーガ行の最終目標は、意識が自己と統一されたときに起こる自己実現である。ヨーガは方法(メソッド)をも意味する。合一という最終目標と目標達成のためのテクニックとを合せもっている。

・ヨーガには二つの側面がある。

1インドのすべての宗教および苦行の実践を包含している。
(瞑想、身体的修練、献身的詠唱も含む)
2ヨーガはパタンジャリによって体系化されたインド哲学の一流派であり、世界最古の記録文献である古代インドの諸ヴェーダの中に既に名前があり、ヨーガ行のルーツはインド前史時代にまで遡る。

●歴史
何世紀にもわたって師資相承された口伝、ヴェーダは、紀元前二五〇〇年にまで遡る。ヴェーダは、四つの部分に大別でき、最古の部分は、ヴェーダ賛歌で、第二の部分は、儀式と供犠を扱っている。長く複雑な儀式を完璧に執り行うことが幸運を約束するものと考えられていた。第三の部分は、森林書であり、黙想と内なる真理を扱い、森林に住む苦行者のために書かれた。最後の部分は、ウパニシャット(ないしヴェーダーンタ)を収めている。「われを非現実から現実へと導き給え、闇から光へとわれを導き給え。死から不死へと導き給え」ヴェーダーンタは、諸ヴェーダの終焉を意味し、自己を知ることの最終到達点を論ずるものとなっている。これらが、あらゆるインド思想・哲学の基盤をなしている。

・ ヴェーダ時代、ヨーガはシャーマニズムと密接に結びついていた(エリアーデ、1969)。初期のヨーギたちは、恍惚のトランス状態と厳格な苦行の実践による超自然力の開発に大きな重点を置いた。禁欲と自己統制の実践はヨーガ行の主要部分を占める。

「バガヴァッド・ギータ」
インドの大叙事詩「マハーバーラタ」の一部。五人兄弟の生い立ちと教育と多くの冒険からなっている。一人の人間の精神的、霊的探求についてのメタファーとして読める。五人兄弟は、五感であり、戦場は個人の肉体と意識。形式は、アルジュナ(自我)とクリシュナ(自己)との対話となっている。クリシュナは霊的教師であり、アルジュナにほかの人々の手本となるために必要な献身、自己統制、瞑想、ヨーガ的実修の重要性を教える。弟子を解決させるべき問題とまみえさせ、発達の上で直面すべき葛藤とまみえさせるが、かわりに戦ってあげることはできない。

● 主要概念「魂」

ヨーガ哲学において、魂は、純粋意識とされる。魂には限界も制限もない。「全宇宙は魂によって満たされている。それに勝るものはなく、異なるものはなく、大小もない、それは木のごとく不動に立ち、栄光の中で揺るがない」魂が、個人の中に顕象化したものが、自己である。自己は不変にして、肉体と精神の影響をこうむらない。しかし、心は、自己についてのわれわれの自覚を歪める。自己とは波のようなもの、海が一時的にとるひとつの形に他ならない。ヴェーダは、唯一存在するのは魂であり、われわれは自己であり、こころとからだは持っているのだと説く。われわれの大部分はこの正反対を信じている。ヨーガの修練によって、人はこの錯覚を正すことができる。ヨーガの古典的文献であるパタンジャリの「ヨーガ・スートラ」では、魂は意識として説明され、永遠の存在と終わりなき至福という二つの特徴を加えている。つまり、魂とはもっとも喜ばしい意識状態であり、永遠で常に新しい至福であり、この特性は自己にも共通するが自己実現するまでわれわれはそれに気づかない。

ある著作家は、魂は形によっても無形性によっても限定されないとしている。「神は形をもたないものであり、また形をもつものである。神はいかなる形でもとる力をもっている」

「どちらの側面に信をおいてもかまわない。無形の神を信じるならそれも結構だ。しかし、一瞬たりとも、それだけが真実で他のすべては偽りだなどと考えてはならない。有形の神も、無形の神と同じだけ真実だということをおぼえておくがいい。しかし、とにかく自分の確信をしっかり離さないことだ」ラーマクリシュナ

●創造の三原理
自然は三つの原理によって成り立っている。
1タマス(不活性)
2ラジャス(活性)
3サットヴァ(光)

自然界のあらゆる顕象(物質、思考、その他)は、この三つのグナから成っている。石像を制作する過程をとると、タマスは手つかずの石で、ラジャスは彫刻行為、サットヴァは彫刻家の想像するイメージの中にある。三つのグナはどれも欠かせない。純粋なタマスは不活性で動きがない、純粋なラジャスは、方向も目的もないエネルギー、純粋なサットヴァは、実現されることのない計画である。人間には、これら三つの質がバランスしており、どれか一つが優勢となっている。サットヴァはもっとも霊的なグナとされる。重たい食物は消化がわるく、怠惰や眠気を誘うことからタマス的であると言える。辛みの効いた食物は、活動や激しい感情や神経質さにつながることからラジャス的である。新鮮な果物と野菜はサットヴァ的で、落ち着きをもたらす。山や海辺など特定の場所はサットヴァ的であるため、精神的・霊的実修にふさわしい。

●意識
「心は魔法の輪ゴムのようなもので、無限に広げても切れない」ヨガナンダ
ヨーガ用語でいう心は、思考プロセスを含んでいる。ヨーガは、心ないし思考の波の統制を意味する。これによって精神の絶え間ない「おしゃべり」がやみ、深い静穏と内的平和が訪れる。人間の心は、穏やかであればはっきりと自己を映し出すものである。心的プロセスないし意識の波が活発だと、自己は激しく沸き立つ水中に吊るされた明るい電燈のように、はっきり見えなくなってしまう。すべてのヨーガ行は、波を鎮め、心を落ち着かせるという一つの目標を目指している。ヨーガのある流派は、身体の統御に焦点を合わせ、ほかの流派は、呼吸テクニックに焦点を合わせ、また別の流派は瞑想実修を教える。ある意味で、ヨーガのあらゆる技法や実修は、心を鎮めるための予備的な訓練と言える。心と体が穏やかに整えられてはじめて、自己への気づきが可能になるのである。

●カルマ
カルマとは行為とその結果とを意味する。すべての活動は一定の帰結をもたらし、あらゆる人間の生は過去の行為による影響を受けるものである。潜在意識的諸傾向→意識の波→行為→潜在意識的諸傾向。新たな潜在意識的諸傾向の形成や、既存の傾向の強化を避けるために、ヨーギは「行動表現(アクティング・アウト)」を慎む。怒りの傾向は怒りの感情によって強められ、怒りの言葉や行為によってさらに強化されていく。ヨーガの理想は、好ましからぬ傾向の抑圧ではなく、否定的な行為や想念を肯定的な行為や想念へと変成させることにある。激しい感情に対処する効果的な方法の一つは、それらの根を穏やかに深く見つめることである。内的な気づきは、それ以後の思考や感覚を変容させることができる。自己鍛錬と正しい行為、そしてヨーガ実修によって、人間は少しずつ自らの意識を変え、古い習性や思考パターンを変成させていくことができる。「人は行為する前は自由だが、行為してしまうと、好むと好まざるとにかかわらずその行為の作用がついてまわる。それがカルマの法則である。人間は自由因子だが、ある行為をなしたときには、その行為の結果を身に受けなければならないのだ」(ヨガナンダ)

● 潜在意識的諸傾向
意識の波をコントロールすることは、潜在意識的諸傾向が消えてはじめて可能になる。「智慧と瞑想の炎によって過去の行為の種子を焼き尽くさない限り、解脱に達することはできない(ヨガナンダ)」潜在意識傾向が心的活動を形作る。潜在意識的習性パターンは、今生および過去生における過去の行為と経験によって生ずるものである。傾向というのは、思考の波ないし意識の波の絶え間ない運動によって出来上がっていく。怒りを含んだ意識の波は、怒りの傾向をつくり、それが人間の怒りの反応へと傾かせる。潜在意識的諸傾向は、いつか顕在化しようとし、休眠状態にあった種子のごとく突然芽を吹きだす。瞑想、自己分析、内的鍛錬によって、そうした種子を焼き、将来活動するであろう潜在的可能性をつぶすことができる。つまり、根本的な内的変革によって、われわれは過去の影響から自由になり成長していくことができるのである。

● ヨーガの諸流派

・ カルマヨーガ(行為のヨーガ)
無私の行為を教える。私心や怠惰やうぬぼれを克服する。「利己的な囚われを投げ捨て、汝の仕事をなせ。そのとき、いかなる罪も汝を汚すことはできない(バカヴァット・ギータ)」カルマ・ヨーギは、うわべの宗教的修行によってではなく、無私を育むことによって変容するのである。

・ ジュニャーナ・ヨーガ(知識のヨーガ)
厳密な自己分析の修練で、識別の道。妄想と束縛の力を理解し、激情、感覚的執着、身体への自己同化を押し留めるか回避しようと努める。人は、理知的な識別を通し、一切の自己でないもの、限定的なもの、滅びゆくもの、幻のようなものを切り捨ててゆくことによって、自己を探求する。「自己精査、つまりおのれの思考の容赦ない監視は、強烈な体験である。それはどんなに強固なエゴでも粉微塵にしてしまう。だが、真の自己分析は、数学的ともいえる働きで見者を生み出す(ヨガナンダ)」

ラマナ・マハリシは、自己との同化を取り戻す方法として、弟子たちに自己尋問というテクニックを教えた。これは休みなく、「わたしは誰か」と問い続け、肉体、思考、感情などを超えて、意識の源に目を向けるメソッドである。
「どうしたら自己が悟れるのですか」
「誰の自己かね?それを見つけてごらん」
「わたしのです。でもわたしとは誰なのでしょう」
「それを見つけるのは君だよ」
「わかりません」
「わかりません、と言っているのが誰なのか、それをよく考えてごらん。わからないと言っている自分とはだれかね?何がわからないのかね」
「わたしはなぜ生まれたのでしょう」
「誰が生まれたのか?君たちの質問すべてに対して答えは同じだ」

「がんばっても自分がつかめないようなんです。それを見分けることができないんです」
「自分が見分けられないと言っているのは誰か?君のなかには二つの自分がいるのかね?一方がもう一方を見分けられないような」

*ラマナ・マハリシは、自己実現が新しい何かを手に入れることではなく、妄想的な理解を取り除く仕事である点を強調した。「ひとたび、自分は肉体である、とか、自分は悟っていない、という誤った考えが取り除かれたなら、あとには、至高意識ないし自己だけが残るが、人々の現在の認識水準では新しい何かを手に入れることが実現と呼ばれるのである。しかし真実を言うなら、悟りは永遠であり、いまここにすでに存在している」たゆみなく着実に心の本性を調べ続けることによって、心は、自分という言葉の指し示すものへと変容していく、実のところ、それが自己なのである。

心に湧き起こる思考の主要なもの、諸元の自分という思い→自分という思いが生じてほかの無数の思考が湧き上がる→心は数々の思考の束に他ならない以上、「わたしは誰か?」と問い詰めてゆくことによってしか心は静まらない。たとえそのような尋問の中で、脈絡のない思考が出てきても、その思考の完成を求めず、代わりに内側に深く、「誰にこの思考は起こったのか」と問いかけてみる。一つ一つの思考が起こるたびに、注意深く、それが誰に起こったのかを問いかけるなら、それが「自分」に起こったということがわかる。その上で、「わたしは誰か?」を問えば、心は内転して、(内面に集中して)湧き上がる思考もまた静まってゆく。こうして自己尋問の実修に努めるにつれて、心はますます源に安住する力をつけてゆく。

・ バクティ・ヨーガ(献身のヨーガ)
愛と献身を育むことによって人間のパーソナリティを変革する道。その支持者たちは、ヨーガの伝統を追及する時間と規律を持った人がごくわずかしかいない現代にあって、この簡易な道こそもっともふさわしいと主張する。献身的ヨーガの実修は、伝統的な宗教に近い。インドのある地方では、ラーマやクリシュナやカーリーが献身の対象なる。実践において長い霊的な詠唱が重要な部分を占めている。詠唱は多くの場合単純な反復形で、神のある側面への集中を促す。詠唱は、感情にしかるべき方向づけを与え、精神統一を養い、心身を活性化するのにも役立つ。霊的な詠唱とは、「神への真の献身の深みから生まれる一つの歌であり、神からの返答を果てしない喜びという形で受け取るまで、声に出して、あるいは心の中で休みなく唱えられるものである。(ヨガナンダ)」
・ ハタヨーガ(身体のヨーガ)
ハタ・ヨーガの実修は、進んだ瞑想と高次の意識状態へ向けて身体を浄化し、強化するよう編成されている。身体は、生命エネルギー、プラーナの媒体とみなされる。こうしたエネルギーを強め、それらのコントロールをもたらし、肉体的・精神的・霊的機能を高めるものである。ヨーガ哲学によると、すべての機能は生き生きとしたエネルギーを必要とする。エネルギーが多ければ多いほど、その人間は健康でそれだけ有能になる。ヨーガポーズの実修は、一部にすぎない。体位に加えて、正統なハタ・ヨーガには、厳格な禁欲独身の実践、呼吸および精神統一行、鼻の気道および喉から腸にいたる全消化器管の洗浄テクニックが含まれる。実修によって精神的・肉体的能力を大きく伸ばすことが可能となるが、精神的な修練が伴わなければ、これらの能力は自我の糧として用いられかねない。(自我肥大)「花が実を結ぶと、花びらはひとりでに散る。それと同じく、あなたのなかの神性が増すと、人間本性の弱さはひとりでに消えてゆく。ラーマクリシュナ」

・クンダリニー・ヨーガ
ヨーガ生理学によると、クンダリニーとして知られる微細なエネルギーが背骨の基底部にとぐろを巻いている。心身のすべてのエネルギーは、このクンダリニー・エネルギーの顕われであり、熟達したヨーギはこれを意識的にコントロールすることができる。このエネルギーは、通常休眠状態にある。それが、クンダリニー・ヨーガのさまざまな修練によって自由に流れはじめるのである。そのなかには、瞑想、観想、呼吸訓練、そしてハタ・ヨーガの浄化テクニックなどが含まれる。ひとたび完全に活性化すると、クンダリニーエネルギーは意識の全レベルを貫いて上昇し、その人間に重大な肉体的・心理的・霊的変化をもたらす。ある人の心とからだが十分に強まり浄化されると、クンダリニーは六つの意識センター(チャクラ)を通って上昇し、最後に七番目の脳のセンターに達する。高次の諸センターに達すると、この霊的エネルギーはさまざまな段階の啓発を生み出すと言われている。各センターは、異なった物理的・霊的特性をもっている。あるものは、五感や自然要素(地・火・水・風・空)と関連し、あるものは形態や色彩といった他の質と関連した特性である。

1ムラダーラ・チャクラは、背柱の基底部に位置し、地、不活性、音の発生、嗅覚と結びついている。
2スヴァディシュターナ・チャクラは、第一センターの数インチ上方にあって、水、白、味覚と結びついている。
3マニプーラ・チャクラは、臍の高さに位置し、火、太陽、視覚と結びついている。
4アナハタ・チャクラは心臓の高さに位置し、赤、空、触覚と結びついている。
5ヴィシュッダ・チャクラは、喉のあたりに位置し、風、白、音と結びついている。
6アジュナ・チャクラは、眉間にあって認知機能と微細感覚の座である。
7サハスラーラ・チャクラは、頭頂に位置し、一千枚の花弁をもつ蓮のチャクラとして知られている。

第七センターには脳が含まれる。クンダリニーが脳を刺激し、活性化させると、その人間は空前の意識化を経験するが、これが深い啓発の経験、つまりサマーディ「一千枚の花弁をもった蓮の開花」と言われるものである。

・ ラージャ・ヨーガ(王者のヨーガ)
これは心理的ヨーガと呼ばれてきた。もっとも効果的かつ効率的な修練として精神的コントロールの開発を重視する。身体を変容し、浄化し、その内部のエネルギー流を組織的に方向づけるよう編成されている。パタンジャリは、この道をヨーガ八支則として体系化した。
(1)禁戒(2)勧戒(3)坐法(4)調気(じょうき)(5)制感(6)凝念(ぎょうねん)(7)静慮(じょうりょ)(8)三昧(さんまい)

これらは、次々と高まっていく達成レベルと考えることができ、各支則は、先行支則の上に成立する。同時に、八支則は、一つの修練の密接につながりあった分枝であり、ある分枝に向上があると他のすべての分枝に好影響が及ぶ。
(1)禁戒(2)勧戒は、ヨーガ実修の基盤となる道徳律。禁戒には、非暴力、正直、不盗、禁欲、不貪が含まれる。勧戒は、清浄、苦行、知足、学習、献身を指す。これらはヨーガの十戒ともいうべきものであり、正しい行為の原理としてすべての宗教に通じている。これはヨーガ実修の効果を高める為の実質的な目的で守られる。穏やかで規律ある日常生活がなければ、ヨーガの実修で得られた精神集中や平安も、穴だらけの桶で水を運ぶがごとくたちまち消散してしまう。「あなたの生をコントロールしているのは、一時的なインスピレーションやすばらしい明暗などではなく、むしろ日々の心理的習性である。(ヨガナンダ)」禁戒と勧戒を守らずして進歩はありえない。しかし最初からそれを完成させるのも無理な話だ。非暴力や正直は奥深い修練である。「ヨーガ・スートラ」は、非暴力を完成した人間の前では暴力は起こりえないと教える。これは初歩レベルの話ではないが、われわれの中の暴力の種子、傲慢や怒りや憤激などが取り除かれて、体内に暴力的な細胞が一つもなくなることがありうるのだ。相手の中の暴力がとっかかりを見つけられないために、われわれのいる前で暴力は起こり得なくなる。禁戒と勧戒は、奥深く、単純な初歩ではなく、ふつうの道徳でもない、実践的な原理である。

心身の浄化も、全組織により高い電圧に耐える用意を整えさせる。サマーディにおいて霊的エネルギーが全開したときのすさまじい力に耐える用意である。

(3)坐法とは、長時間リラックスし、背骨をまっすぐに保って坐る能力をさす。パタンジャリは、「坐法とは、安定と快適さを意味する。それには、リラックスと不動なるものへの瞑想が必要である」と述べる。インドでは、ヨーガの実修者は、ある決まった坐法で座れる時間を少しずつ伸ばしていく努力をする。あるポーズを三時間身動きせずに保つことができてはじめて、その体位がマスターできたことになる。

(4)調気は、ヨーガのユニークかつ最も根本的な側面である。しばしば呼吸のコントロールと誤解されているが、呼吸訓練によって新陳代謝を遅らせ、生命エネルギーを解放することはできるが、これは生命エネルギーをコントロールする方法として間接的なものにすぎない。最終目標は、生命エネルギーの完全な統御である。これは様々なヨーガ実修によって達成することができる。熟達したヨーギたちが、思いのままに心臓の鼓動や呼吸を止めるというかたちでこの統御を実証して見せたこともあるし、何人かのヨーギが数日から数週間みずから土中に生き埋めになって見せた例もある。現代の生理学研究によっても、現役のヨーギたちに心拍をコントロールしたり、完全な呼吸停止をやってのけたりする能力があることは確認されている。(詳しい文献は、ティモンズとカミヤ、1970年、ティモンズとカネラスコス、1974を参照のこと)

(5)制感とは、五感を閉ざすことを言う。生命エネルギーは感覚器官から引き上げられて、ヨーギはもはや外的刺激のたえざる猛襲による混乱を受けることがない。これは、インドの科学者たちが瞑想中のヨーギの脳派をとったところ、外側の刺激に影響を受けないことが判明して確認されている。(アナンド他1969年)パタンジャリは制感を、「感覚対象の放下により、感覚を心の始原の純粋性に復帰させること」と定義する。われわれが静かに座ると、意識の外的な慌しさは収まり始める。われわれは次に、呼吸を遅くし、心を鎮めることを学ぶ。制感とは、意識が五感を通じて世界へ流れ出すのをやめるという意味である。エネルギー流が脊柱と脳に向けて転ぜられると共に、われわれは内なる源を自覚するようになる。

(6)凝念とは、「一つの対象にしっかりと据えられた注意」のことである。二つの側面があり、散漫の対象となるものから注意を引き上げることと、一度に一つものに注意を集中することだ。凝念とは、リラックスした状態であって、苦闘や注意の強要とは違う。凝念の実修に先立って、調気がいくらかでも進んでいることが必要だ。五感全部が活動していたら、五本の電話が休みなく鳴り続けている状態である。外部感覚のもたらす様々な思考が、さらに果てしない記憶と想像の流れを生みだす。車の音がすれば、「ああ車が通るな」と考えてしまうが、そこから以前持っていた車のことや、将来買いたい車のことなどが延々と続いてゆくのである。「われわれの中で強い推進力となっているのは思考である。心をもっとも高次の思考で満たしなさい。日々それらを耳にし、何か月でもそれらを考え続けるのだ(ヴィヴェーカーナンダ)」

(7)静慮(瞑想)という言葉は、西洋では、あいまいな使い方をされている。ヨーガ用語で静慮とは、瞑想者の意識に、ただ一つの想念、つまり瞑想の対象だけしか残っていないきわめて進んだ実修のことである。心は完全に統一され、一点に集中している。

(8)三昧(サマーディ)は、ある意味では、ヨーガ行の真髄と言える。三昧に達した者だけが真のヨーギとみなされる。それ以外のものは、修行者である。パタンジャリによれば、「三昧とは、合一としての合一が消え失せ、しっかりと注意を向けられた対象の意味だけが存在する」ような状態だと言う。

自己実現(了解)とは、心が完全に穏やかで集中し、内なる自己の質を反映するようになったときはじめて起こる。自己が無限である以上、三昧も最終的ないし静的な状態ではない。そこには自己と魂についての無数のレベルの気づきが含まれる。パタンジャリは、三昧を二つのタイプに大別する。意識場の中に内容があるものとないものの二つである。意識場の中の内容は、瞑想が深まると共にどんどん精妙になってゆく。ある神格のイメージといった一つの思考形態の意識化から、愛のような抽象概念の意識下へと進んでゆくわけだ。やがて、深い歓喜ないし平安の意識しかなくなり、最後には、自己の意識だけが残ることになる。この段階に達したものは、カルマと潜在意識諸傾向の影響から完全に解放されていると言われる。

●四住期

理想化されたインド人のライフサイクルは学生期(がくしょうき)、家住期(かじゅうき)、林棲期(りんせいき)、遊行期(ゆうぎょうき)という四つの段階から成り、各段階は二十五年ずつ続くとしている。

学生期は、伝統的に一人の徒弟となり、教師と同居する。専門的な職業技術の習得に加えて、情緒的・霊的修練を通じた人格形成に重きを置く。目標は、気分や習性や衝動の奴隷になりつづけるのではなく、調和のとれた生産的な人生を送る力を備えた成熟した人間になることにある。

学生期が完成すると、生家に戻り、結婚して家住期に入る。家住者の義務は、稼業の遂行と家族の養育で、家族の喜びと職業上の成功、そして活動的で責任ある市民として地域共同体に奉仕することのなかに満足を見出そうとする。第一段階で受けた訓練によって、自己統制のとれた生を送ることができる。欲望に駆り立てられることなく、節度をもって家住者の喜びと義務を楽しむことができる。

林棲者は、家族と仕事から徐々に引退することを意味する。夫婦が五十歳を過ぎるころには、子供たちが一家の責任を遂行できる年齢に達している。年寄夫婦は、人里離れた森の小屋に隠居するか、すべての義務と仕事から手を引いて家族と同居する。

遊行期は、葬儀と良く似た儀式が行われる。その人はもはやすべての社会的責務と個人的きずなに対して公式に死んだものとされ、外的な要求や制約に邪魔されず自由に自己実現を追求することができる。

●自己実現
ヨーガの道とは、基本的に、意識を外界の活動から転じて、意識の源である自己に向けるプロセスである。「神の実現に向かってどのような道をとろうとも、秘訣は、心が完全に穏やかにならない限り、神との合一(ヨーガ)は起こりえないということである。心がつねにヨーギのコントロール下に置かれるのであって、ヨーギが心のコントロール下に置かれるのではない。(ラーマクリシュナ)」

●成長の障害
煩悩ないし苦しみの原因として、無知、利己心、欲望、憎悪、恐怖の五つをパタンジャリはあげている。これらの煩悩は、禁欲と自己コントロール、霊的学習、献身によって徐々に弱まっていく。ヨーギは少しずつ、煩悩に対立し、その作用を弱めるような潜在意識的諸傾向を強化していくのである。煩悩には、グロスな側面(粗)とサトルな側面(微細)があり、粗な形態においては、煩悩は現実の思考の波(恐怖、欲望その他の形をとった)より微細な側面から見ると、煩悩とは三昧の成就まで持続する潜在意識的諸傾向(恐怖、欲望その他へ向かう)だと言える。

・無知
無知は成長の最大の障害である。無知こそが原因であり、ほかはその結果である。無知は滅ぶべきものを不滅と、純粋なものを不純と、苦痛を快感と、非自己を自己と取り違える。(ヨーガ・スートラ)意識が自己から外側へ向けて強力に投影されるため、心をその源へ向けなおすことはきわめて難しい。外部世界および休みなく活動する五感へのかかわりが、自覚に置き換わってしまっているのだ。無知は結果を原因と取り違える。つまり、世界を経験の源と捉え、究極的源としての自己に気付かずにいることによって、自己のさまざまな特性を世界に備わったものとしてしまうのである。

・利己心
利己心は、自己を肉体や思考と同一視する結果として生ずるものである。利己心とは、見る者と眼の限界との同一視に他ならない(ヨーガ・スートラ)肉体との同化は、恐怖、欲望、限定感につながり、思考との同化は不安と感傷につながる。

・欲望と憎悪
欲望とは快楽への憧れであり、憎悪とは苦痛からの退却である。(ヨーガ・スートラ)煩悩は、人を外部世界のたえざる変化と流転に縛りつけ、深い静穏や平安を不可能にしてしまう。ヨーガ修練の主なねらいの一つは、苦痛、快感、成功、失敗、その他外なる世界のさまざまな変化に対する我々の驚くべき過敏さを克服することである。「感覚的欲望を満足させても、真の満足は得られない。あなたは五感ではないからだ。五感はただの下僕であって、自己ではない(ヨガナンダ)」ヨーギは、世間の支配からの自由を求め、肉体的・心理的・感情的反応によってコントロールされる代わりに、それらをコントロールすることを学ぶ。
欲望と憎悪は、快感をもたらしたり、苦痛を回避したりしてくれるものへの執着をもたらす。執着は、快感や充足感を得るには何かをもたなくてはならないという感覚から生ずるものである。執着を克服するといっても、それはヨーガが否定的で喜びのない自己統制だということではない。無執着とは、何であれ与えられたものを楽しみ、喪失感や悲しみを抱かずに、それを手放せるという意味なのだ。ラーマクリシュナは、無執着を説明するのに自分の村を離れて大都会の家に働きに行く女中の例を引いた。彼女はその家や家の子供たちを愛するようになり、「わたしたちのおうち」「わたしのかわいい子」と呼んだりするようになるかもしれない。しかし、そうしながらも彼女は、彼が自分の子供ではなく、自分の家ではないことを知っている。自分の本当の家が遠くの村にあることを知っている。「わたしはここへやってくる人たちに、この女中のように執着のない生を送るように言いたい。この世界に執着せずに生きるよう。世間にいて、しかも世間に染まらないようにと言いたい」

無執着というのは、おいしい食べ物やその他の喜びを無味乾燥に、苦虫をかみつぶしたような仕方で経験することではない。むしろ自分に与えられたものを十全に楽しみ、それが手元になくなってもその喜びを失って悔んだりしないことだ。無執着に熟達した者は、快感を多くしたり苦痛を少なくしたりすることを求めて現在を改変しようとせず、あくまでもありのままの現在を楽しむのである。

・恐怖
恐怖は五番目の煩悩である。恐怖は、死に対する絶えざる自然な脅威からくるものであり、学識ある者の心にさえしっかりと根を下ろしている(ヨーガ・スートラ)恐怖は不滅の自己の代わりに必滅の肉体に自己同化する結果として生ずるものだ。「死の恐怖は絶えず心に宿っているが、欲望と憎悪が過去の何らかの経験の結果であるのと同様、死の恐怖は、過去の死の結果として生ずるものである」

●身体
大部分のヨーガ修練は、身体に対しても耽溺もしなければ、過度に禁欲的でもないという穏健的なアプローチをとる。「ヨーガは調和である。多く食べ過ぎるものにも、少なく食べ過ぎるものにも向かず、また少なく眠りすぎる者にも多く眠りすぎる者にも向かない」(バガヴァット・ギータ)

●対人関係
「たとえそれがつつましいものであったにせよ、また偉大なものであったにせよ、他人のではなく、汝の義務をなせ。おのれの義務の中で死ぬことは生である。他人の義務の中で生きることは死である」
宗教的献身は、対人関係を通じて学ぶことができる。西洋のわれわれは、これまで神を宇宙的な父親像と捉えがちだったが、インドの神は、親、子、友人、グル、愛人など多くの顔を持っている。家族や友人との関係の中で愛と献身を実践することによって、人はこうした感覚を拡大し霊化し、ほかの人々を兄弟姉妹として愛することを学んでいく。
「すべての人の中に神を見ることを学びなさい。その人がどんな人種であれ、どんな信仰をもつのであれ、あらゆる人間との一体性を感じ取れるようになったときはじめて、神の愛の何たるかがわかるだろう(ヨガナンダ)」

●意志
「日々更新される感覚的あこがれは、人間の内なる平和を吸い尽くしてしまうものだ。世界を自己統制の獅子のごとく歩め。感覚の弱みというカエルに、あちこち蹴りまわされてはならない」

●情動
苦痛をもたらす波とは、無知や混乱や執着を増大させるような思考や感情のことである。それらは必ずしも不快なものとはかぎらない。(例えば自尊心がそうだ)苦痛をもたらさない波は、より大きな自由と知識につながってゆく。平安に向かう最大の障害は、怒り、欲望、恐怖といった苦痛をもたらす意識の波である。これらは、愛、寛容、勇気といった苦痛をもたらさない波によって打ち消すことができる。苦痛をもたらさない波を育むことによって、否定的な諸傾向を中和するような肯定的な潜在意識的諸傾向が生み出される。とはいえ、ヨーガの最終目標は、肯定的な感情をも最後には超越することにある。愛や歓喜の感覚を超越するというのは不自然に聞こえるかもしれないが、どんなに肯定的な経験もわれわれを五感の世界に縛り付けやすいものなのだ。自己を観ずるには、それを乗り越えていかなければならない。感情に対するもう一つのアプローチは、そのエネルギーを精神的霊的な成長の方向へ向けてやることである。これらの熱情、怒り、欲望などは、世間とそこにある客体に向けられているかぎり敵としてふるまう。だが、それらは、神に向けられたとき、人間の最良の友となる。世間のさまざまなものに向けられた欲望は、神への渇望に変えられなければならず、人間が隣人に対して感ずる怒りは、自らを明かしてくれない神の方へ向けなおされるべきである。人はすべての熱情に対してこのようにするのが良い。
「ブラフマンを見る者は、ブラフマンの内に住まう。彼の理性は安定し、妄想は消え去っている。快楽が訪れても彼は揺るがず、苦痛が訪れても彼はたじろがない」

●知性
ヨーガにおける知的発達は、経験を通して理解に到達することにかかっている。

●教師
グルという言葉は、持ち上げるという語源に由来する。自己実現した教師は、内的な平安と至福の感覚を伝えてくれる。ヨガナンダは、彼のグルに受け取ったインスピレーションについてこう述懐する。「もし不安ないし無関心な心の状態で隠遁に入ったのなら、わたしの態度は多少なりとも違っていただろう。しかし実際には、グルの姿を目にしただけで、心を癒すような静けさが訪れた。彼のもとで過ごす一日一日が、新しい喜びと平和と智慧の経験であった」

●評価
ヨーガの本質は、具体的、実践的な実修システムを通して、意識変容を行う点にある。自己のエネルギーと意識が外向きに流れている限り、それは我々の潜在意識的諸傾向、習慣、パーソナリティといった一連のレンズによって歪められてしまう。潜在意識的諸傾向は、我々の思考を偏向させ、その思考がさらに我々の行為に影響を与える。行為のパターンが習慣となり、習慣がひるがえってこれらのレンズを強化する。そうなると、純粋な喜びであり、純粋な愛と至福である自己も、われわれの意識と世界のうちに顕象化することができない。ヨーガ実修の狙いは、この歪みを少なくし、意識の流れをその源である自己へ向けなおすことにある。歪みを少なくするには、肉体とパーソナリティの諸傾向を浄化すればよい。

●呼吸法

呼吸の観察
椅子か床に背筋を伸ばして座り、身体をリラックスさせる。目を閉じる。深く静かに息を吐きついで息を吸い、これを無理なく快適に続けられる限り続ける。浜辺で打ち寄せる波を眺めるかのように、呼吸の出入りを観察する。息を吸うごとに、酸素と一緒に新鮮なエネルギーと生気を取り入れると感じる。息を吐くごとに、二酸化炭素と一緒に、疲労や否定的なものを吐き出すと感じる。これを続けながら、新しい活性化エネルギーが心身を満たしてゆくことを感じる。そのあと、平和な穏やかな心で静かに座る。

禁欲
食べ物にとりつかれているなら断食し、眠るのが大好きなら睡眠時間を短くする。小さな快感や慰めを断つことは、重要な自己統制になりうる。注意すべき点は、禁欲はエゴを増長させる可能性をもっている。
沈黙も有益な実修の一つである。試しに何時間か沈黙を守ってみる。積極的にコミュニケートしたいという自分の欲求を克服する努力をする。沈黙のまま、ただある、ということを学ぶのだ。

●瞑想実修

ハートの鼓動
背筋を伸ばし、身体をリラックスさせて座る。目を閉じて、心をハートの深みへおろす。心臓が生命を育む血で沸き立っているのを意識し、そのリズミックな鼓動を感じ取れるまで心臓に注意を注ぎ続ける。鼓動のたびに、永遠の生命のパルスが自分を走り抜けるのを感ずる。すべてに遍満するその同じ生命が、ほかのあらゆる人間にも、何億という他の生き物たちにも流れていることを思い描く。ハートと身体と心ともろもろの感覚を開いて、その普遍生命をもっと全面的に感受する。

愛の拡大
背筋を伸ばし、目を閉じて座る。長い間、肉体への愛と肉体への同一化によって限定されていた、自分の愛の領域を拡大する。いままで肉体に向けていた愛をもって、自分を愛してくれるすべてのものたちを愛する。自分を愛してくれるすべてのものたちから向けられる広い愛をもって、身近なすべてのものたちを愛する。自分自身と自分の身内への愛をもって、見知らぬものたちを愛する。自分を愛してくれるものたちばかりでなく、自分を愛さないものたちへも愛を拡げる。その無私の愛ですべての存在を包む。家族、友人たち、あらゆる人々、すべての存在が、自分の愛の大海の中にあるのを見る。

平安
背筋を伸ばし、目を閉じて座る。心眼で、眉間にある岸辺なき平安の湖を見る。平安の波が眉間から額へ、額からハートへ、そして体内の全細胞へと広がっていくのを見守る。それを見守ると共に、平安の湖は深さを増し、身体からあふれ出て、心の広大な領海を浸してゆく。平安の洪水はあなたの心の境界線を越えて流れだし、数かぎりない方向へ押し寄せていく。

■禅仏教
「汝、ただ一人歩まねばならない。諸仏は、道を示すのみである」シャカムニ・ブッダ

仏教はゴータマ・シッタルダ、仏陀の教えに基づいている。Buddhaとは、知る者、一定の理解レベルを体現した者、十全な人間性に達した者を意味する。

ゴータマは紀元前六世紀、北インドの小王国の王子として生まれた。十六歳の時結婚し、王宮で安楽かつ贅沢に暮らしていた。しかし、彼は外の世界で、老いた人に出会い、次には重病に苦しむ人を目にする。そして、運ばれる死体を見る。最後に、宗教的苦行者に遭遇する。ゴータマは、老いと病と死が、人生に避けられないものだと知った。人間の苦しみの不可避性が、彼の根本問題となり、彼は家族と王宮をあとにして、宗教的修練による解決を求めた。

●中道
長い断食修行の結果、ゴータマは、肉体をいじめることでは悟りが得られないことに気付き、食べ物を受け入れた。これが、仏教でいう中道という考え方の最初の手本である。五感におぼれきるという極端にも、自虐という極端にも偏らず、健全で有益な修練を追求するということである。深く長い瞑想の後、ゴータマは深遠な内的変容を経験し、それが彼の人生観全体を一変させた。彼自身が変わったおかげで、老・病・死の問題に対する彼のアプローチが変わったのである。こうして彼は仏陀となった。

●仏教の流派
小乗派(上座部)は、主に東南アジア、スリランカ、ビルマ、タイ。
小乗派は、自己鍛錬を重んずる。

大乗派は、チベット、中国、韓国、日本で栄えた。
大乗派は、伝統の修行戒律の解釈に関してゆるやかで、家庭生活者を排斥しない、後代の仏教経典をすすんで取り入れる。慈悲の重要性を強調する。

●禅は、大乗派の中の主な宗派の一つである。禅は六世紀中国で、宗教的儀礼よりも、黙想と個的鍛錬を重視したインド人仏教僧ボーディダルマ(菩薩達磨)によって創始されたと言われる。一連の偉大な禅匠の影響のもと、禅は独自の僧院、組織を備えた仏教の独立した一派に発展。十三世紀になると、栄西と道元という二人の日本人僧が、仏教を学ぶために中国に渡った。彼らは、日本に戻ると、それぞれに寺を興し、優れた弟子たちを育て、日本における禅仏教の二大流派、臨済宗と曹洞宗を創始した。臨済禅を伝えた栄西禅師は、公案による悟りを強調した。曹洞禅の創始者である道元禅師は、次の二点を重視した。(1)日々の実践と悟りの間に溝はないことと、(2)正しい日常行為そのものが仏教であること、の二つである。

●存在の三特性

無常性
永久不変なものは何もない。木々、建物、太陽、月、すべてが有限の存在であり、すべてがいついかなる瞬間にも変動している。無常性は思考や観念にもあてはまる。諸条件の変化によって、ある時点で真実だと思われたことも、ほかのときには、虚偽になったり、不適当になったりする。Buddhaとは、変化であることの了解なのである。「おお仏陀よ、行き、行き、超え行きて常に超え行くもの、つねに仏陀になりつつあるもの」

無我性
無我の概念は、人間のうちに不死の魂や永遠の自己などありはしないと捉える。個人は、理知、感情、肉体など、そのすべてが、無常で絶えず変転する様々な属性の集合体とみなされる。

不満足
不満足ないし苦が、存在の第三の特性である。そこには、誕生、死、衰退、悲しみ、痛み、絶望、そして存在そのものが含まれる。苦しみは周囲からではなく、われわれ自身からくるものだ。それは、各個人の限られたエゴ、相対意識のなかにある。仏教の教えは、われわれの利己性や限界を変化させたり、超越したりすることを助け、それによって自分自身および世界に多少なりとも満足できる人間を生み出すようにつくられている。不満足の原理を、ただ苦しみが存在の不可欠部分だという意味に解釈するのは正しくない。仏陀は、苦しみの源が、個人の中にあると教え、この基本的な不満足が何とかできるものであるという楽観的な結論を示した。

●四つの真理(四聖諦)
ゴータマは、彼が人生の不可避部分と見た苦しみと限界を克服する道を探った。彼は、人間存在の本質的特性を四つの貴い真理という形で概説した。

第一の真理は、不満足の存在である。(苦諦)平均的な人間の心理的状態から考えれば、不満足ないし苦は避けられない。
第二の真理は、不満足が煩悩ないし欲望の結果だということである。(集諦)ほとんどの人間は、世界をありのままに受け容れることができない。彼らは、肯定的で快いものに対する執着と、否定的で苦痛をもたらすものへの反感とにとらわれている。煩悩の生み出す不安定な心の状態の中で、現在は決して満足のゆかないものとなる。欲望が満たされなければ、われわれは現在を変えようとする欲求に駆られるものだ。満たされたら満たされたで、今度は、フラストレーションや不満足の更新をもたらす変化を恐れる。万物は流転するところから、欲望が満たされた喜びも、常にそうした喜びが束の間のものだという了解で曇らされてしまう。渇望が強ければ強いだけ、満足が続かないことを知ったわれわれの不満感も大きくなる。

第三の真理は、煩悩の除去が苦しみの消滅をもたらす、ということである。(滅諦)さまざまな限界があることを理由に不満足を感じたりせず、世界をありのままに受け容れることは可能だという。煩悩を取り除くと言っても、一切の欲望を消し去るという意味ではない。自分の幸福が、ある欲望の満足にかかっていると思い込んだり、自分の欲望に支配されるようになったとき、はじめてそれらの欲望が不健康な煩悩と化すのである。欲望そのものは正常で必要なものだ。生きていくために、食べたり眠ったりしなければならないのだから。欲望はまたわれわれをしっかり目覚めさせておいてくれるものである。もし、すべての欲求がたちどころに満たされたら、受け身の、思慮のない、自己満足状態に陥りやすい。受容とは、満たされた欲望は十分楽しんで、なおかつどうしても避けることのできない不満足の時期にも、過度に落ち込まないという平静な態度をさす。

第四の真理は、煩悩と不満足を除く道があるということ(道諦)で、それが八正道ないし中道である。大部分の人間は、最高度の感覚的満足を追求する。一方こうしたアプローチの限界を悟った人々は、自己抑制というまた別な極端に走りがちだ。仏教の理想は中庸である。
「これら両極端を避けるがよい、僧たちよ。それは何か?一つは低次の卑しい下劣で無益な情欲と贅沢への耽溺である。もう一つは、苦痛に満ちた、下劣で無益な自己拷問と抑制の実践である。仏陀の教える中道をとれ。それは洞察と平安、智慧と悟りへつながっている。

●八正道
正語、正業、正命、正精進、正念、正定、正思惟、正見からなる。基本原理は、ある種の考え方・ふるまい方は他の人々に害を与え、自分自身を傷つけたり限定したりしやすいということである。仏教の教化、鍛錬には、三つの不可欠要素がある。戒、定、慧の三つである。八正道は、この三つのカテゴリーに分けられる。

戒は、普遍的な愛と一切衆生に対する慈悲という根本的な仏教の教えに基づいている。戒の中には、正語、正業、正命が含まれる。

正語とは、嘘言、陰口、中傷、その他不統一や不調和を引き起こしかねないあらゆる会話、乱暴な言葉や汚い言葉、無益で愚かしいおしゃべりやゴシップを慎むことを意味する。真実を語り、友好的で快く、穏やかで有益な言葉づかいをすべきである。話し方に注意して、何が時と場所にふさわしいかを考慮すべきである。何も有益なことを言えないなら、貴い沈黙を守るのが理想的だ。

正業とは、道徳的で、まっとうで、温和なふるまいを意味する。この中には、殺生、盗み、不誠実な行為、姦淫を慎むこと、ほかの人々が平和で円満な生活を営むのを助けることが含まれる。

正命とは、武器、酒類、毒物の商いや動物を殺すこと、詐欺など、他の者たちに害を与えるような職業によって生計をたてるのを控えるという意味である。理想は、まっとうで潔白で、他に害を及ぼさないような職業でもって生きてゆくことだ。

定の中には、正精進、正念、正定が含まれる。

正精進とは、肉体の諸活動、感覚や感触、心の諸活動、個々の観念や着想に気付き、心を配り、注意を払うことである。仏教各派では、この正念を発達させるために様々な瞑想法が開発されてきた。このなかには、呼吸、感覚、精神活動への集中が含まれる。

正定は、四つのレベルの瞑想につながる。第一段階では、強い欲望と悪意、気苦労、不安といった不健全な思考を捨て去り、喜びと幸福の感覚が育まれる。第二段階では、一切の知的活動が放下される。静けさと心の一点集中が増し、第一段階で養われた喜びと幸福の感覚が持続する。第三段階では、活発な感情の一つである喜びの感覚も消え去る。心のゆきわたった静穏と幸福感が残る。第四段階では、幸福感を含む一切の感覚が消える。ただ純粋な静穏と気づきだけが残る。

慧は、正思惟と正見から成る。正思惟には、無私の公平さと愛と非暴力が含まれる。正見とはありのままのものごとの理解、すなわち四つの貴い真理の理解である。仏教心理学における理解には、二つのレベルがある。第一のレベルは、知識と記憶の蓄積、問題の知的な把握を指す。第二のレベルでは、名前やレッテルにわずらわされずに、あるものの真の本性を見抜くことを指す。これは、心が様々な汚れを落とし、瞑想を通して完全に発達してはじめて可能となる。
「禅僧にとって向上の第一前提は、集中的な座禅の実修である。誰が利口で、だれがとんまかなどと言い争うよりも、とにかく座禅せよ。そうすれば、自然に向上が起こるだろう。(道元)

●禅瞑想
禅という言葉は、サンスクリット語で、瞑想を意味するディヤーナから来ている。瞑想は禅の核心をなす修練である。座禅は、二つに大別できる。「公案」に集中するか、外的な焦点を持たずただ集中的な気づきと共に座るかだ。公案は、逆説的で論理を超えており、それに取り組む者に、その時点まで経験を捉えていた様々な範疇づけに固有の限界を乗り越えることを迫る。「なすべきはただ、学問的探求をやめ、内にとって返して、自分自身を省みることだ。身心を自然に放着することができれば、仏心はたちまちその姿を現すだろう。

個人的公案には、最終的解決というものがない。問題は自分自身を変え、自分の見方を変えることによってしか処理できないが、それは、その人のパーソナリティが変化した結果としてはじめて起こることである。

瞑想に対する曹洞宗のアプローチは、心を占領するような課題をもたずに、ただ坐ることだと考えていい。瞑想者は、集中した気づきの状態を保つことにつとめる。緊張とも、弛緩とも違う。一分の隙もない状態だ。この姿勢は、道端に座って人や車の往来を眺める者のそれに近い。瞑想者は、思考が通り過ぎていくのを見守りながら、しかもそれらに取り込まれず、しっかりと眼をみはった観察者にとどまることを忘れたりしない。(ある者は、ネズミにとびかかるネコを観察して学んだと言う)

幻視その他それに類した体験は、正しい禅瞑想からは生じないのが本当だ。一般にそれらは、まちがった坐法によって高まった緊張か、瞑想中一定の時点で現れる白昼夢的な状態の結果である。こうしたいわゆる「魔境」は、その人の精神的、霊的成長にとっては無価値なものとみなされる。それらは良くて横道、最悪の場合は自尊心とエゴイズムと妄想の源になる。瞑想は、内的平安と静穏を深め、集中力とバランスを身につけるための重要な修練である。人はまず瞑想の中で、平安と集中に達することを学んだうえで、次に穏やかな気づきの感覚を活動にも広げてゆく。最後には、熟練した瞑想者のバランスを崩すものなど何もなくなる。ある一定の超然とした視野に立って、この穏やかな基盤から様々な問題や楽しみに対処することを学ぶのだ。「座禅は、われわれの真の本性の直接的表現である。厳密にいえば、ひとりの人間にとって、この実修よりほかにどんな実修もありはしないし、このような生き方より他にどんな生き方もありはしない(鈴木)」

●光明
悟りとは、直観的理解を意味する。見性は、自分自身の本性を見抜くことを意味する。
第一の見性
光明体験の第一のレベルは、深い理解の大いなる閃きと描写されてきた。この見性は、自分の全存在をもって、仏教の永遠の霊的真理を了解することである。人は自分が、自分自身よりも大きなものと一体であることを知る。この見性は、瞑想と修行の続行と共に深まっていく。

第二の見性
持続的見性と呼ばれるもので、長く目に見えない成長段階である。さらなる進歩のために禅修行は厳しさを増していく。今や間違った行いをすることは、戒律の問題ではなく、自分自身の内なる真理の理解にそむくことになる。「汝自身の灯となり、島となれ」「一二度、大きな体験を味わったが、それ以外にも、何百万という小さな瞬間があって、それらが一つのダンスをなしている」

第三の見性
真正なヴィジョン、その他の神秘体験が含まれる。しばしば、死を間近にした最後の病に際して体験される。死ぬまでもなく、瞑想と修行に打ち込むことによって第三の見性を体験することができる。最終的には、これをも乗り越え、いかに啓発的、感動的なものであれ、こうした体験にしがみつくことなく、世間での活動に帰っていく。「悟りは一つの持続的なプロセスであり、川のようにとどまることなく流れ続けている。川を手の中に収めることはできないが、手を川にひたすことならできる。握りしめればすべてを失うが、流れをたやさなければ、何一つ所有せずともすべてをわがものとすることができる」(ケネット)
「悟りとは、何か快い感覚や特定の心の状態といったものではない。正しい姿勢で坐ったときの心の状態そのものが悟りに他ならないのである」(鈴木)

●阿羅漢と菩薩

上座部・小乗仏教の理想は、阿羅漢といって、家族、財産、慰安といったものへの執着に伴う一切の限界を断ち切り、この世から完全に自由になった人間である。アルハット、阿羅漢とは、文字通りに訳すと、敵を打ち殺したもの、すなわち激しい霊的修養の過程であらゆる情動を討ち取った者を意味する。「彼は力の限りを尽くして、求め闘って、この誕生と死の輪廻が、たえず流動していることを了解した。彼は多くの条件の集合体によってもたらされる存在の一切の条件を拒む。それらはその本性からして衰え、崩れ、変化し、滅びるものだからだ。彼は一切の汚辱を捨て、アルハットとなった。黄金も土くれも彼にとっては同じこと。大空もおのれの手のひらも、彼の心にとっては同じこと」

大乗仏教の理想は、ボーディサットヴァ(菩薩)つまり、悟りの存在である。菩薩とは、ほかのすべての者たちが苦しみから解放されるまで世界にとどまることを誓った慈悲深い存在を指す。菩薩の偉大なる美徳である慈悲は、他のすべての者たちの苦しみを真に自分自身の苦しみとして感受する結果生ずるものである。大乗の観点からすると、この姿勢そのものが悟りに他ならない。悟りの体験の中では、世界が超越されるのではなく、自分本位のエゴが超越されるのだ。「仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは、自己を忘るるなり。自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の身心、および他己の身心をして脱落せしむるなり」(道元)

菩薩の道に世間を捨てることは含まれるが、そこに生きるものたちを捨てることは含まれていない。阿羅漢の道は、霊的完成と世間の放棄を強調して、奉仕を重視しない。阿羅漢の姿勢では、他のものたちに手をかしたいと願う者は、まず自分自身に取り組まねばならないとされる。迷妄にとらわれている者が他人を助けたり教えたりしても効果がないところから、自己開発が当然まず第一に行わなければならないというわけである。

これら二つの理想は、矛盾するというよりも、相補的なものとみることができよう。阿羅漢モデルが自己鍛錬および自分自身との取り組みに対して焦点を当てるのに対し、菩薩の理想像は、他への献身的奉仕に重点を置く。その両方が、精神的、霊的発達においては不可欠な要素なのである。

●成長の障害

欲・憎しみ・迷い
「戦場で一千人の敵の軍勢を打ち負かす人間がいる。一方、自分自身を征服する人間もいる。偉大さにおいては、後者の方がまさっている」

大部分の人にとっては、欲が一番大きな問題である。虚栄心、不満、ずる賢さを特徴とした欲。

憎しみに支配された人間は、気性が激しく、怒りに駆られやすい。こういう人たちの人生は、たえざる敵との戦い、現実の傷や架空の傷を理由にした他人への非難、いつ来るかわからない攻撃に対する自己防衛の連続である。憎悪型の人間は、怨恨を抱いたり、他人を中傷したり、傲慢、嫉妬で苦しんだりすることが多い。

迷いとは、混乱、気づきの欠如、動揺といった状態一般をさす。迷妄型の人は、集中できず、だらしないやり方をする傾向が強い。

自分自身と取り組むことによって、これらの障害物は、すべて乗り越えることができる。欲は慈悲に、憎しみは愛に、迷いは智慧に転じることができる。自己統制および仏陀の戒律に従うという修練は、人間に自分自身の欲と直面し、それをコントロールする機会を与えてくれる。愛と他者への尊敬を重んじる仏教の教えは、憎しみを克服する方法を提供してくれる。そして、すべてが仏陀であるという了解は、迷いをコントロールしてくれる。

●自尊心
自尊心は、成長の妨げになる大きな障害物である。自尊心は教師への敬意をそこない、教えの歪曲を生み出しかねない。禅の師家たちは、弟子たちに、自尊心とエゴイズムをはっきり認識させようとする。第一の見性後、この段階で、すべてを学び終えたと思う学徒が多く、規則正しい勤めと修行を怠れば、避けがたい自尊心や慢心、「悟りの臭み」が生じる。
「自己を見るということは、自己に満足しないということである。自己に満足しないということは、自己をどうにかしたいと望むことである。そして自己をどうにかしたいと望むことは、仏法を学ぶことである」(道元)

●対人関係
瞑想的修行に共通してみられる思い違いは、静寂主義、つまり自分の瞑想的平安を乱すのを恐れて世間から引きこもることである。仏教の教えは、ひきこもりとは反対に、責任を強調する。瞑想自体は、最終目的ではない。仏陀は、この世の苦しみを超越しているわけではないし、援助や慈しみを受ける必要を超越しているわけでもない。永久不変の状態が仏陀でもない。のんだくれは、ひとりの酔っぱらった仏陀として扱えば良い。ほかの人々に迷惑をかけるのは防いでも、無礼な扱いをする必要はない。同様に、まちがった行いをしている人間は教育の必要のある「赤ん坊の仏陀」とはみなせても、罰を与えたり、排斥したりすべきではない。その人を排斥することは、仏陀まで排斥してしまうことである。社会的な交流の場は、仏教の理念や原理を実践し、瞑想で培った穏やかな気づきを実地に活用するためのまたとない機会を提供してくれる。

●意志
「修行と悟りが別だと考えるのは邪見である。仏教ではその二つは同一なのだから。教師は、弟子に決して修行の外に悟りを求めないよう教える。修行が悟りを映し出すものだからだ。修行がすでに悟りである以上、悟りに終わりはない。悟りがすでに修行である以上、修行にはいかなるはじめもありえない」(道元)

「あなたの悟りは、怠けて、さらなる実修を怠れば、簡単に見失ってしまうようなものだ。そのうえ、悟りに達したと言っても、あなたはもとのあなたのままでしかない。何一つつけ加わったわけではないし、あなたが前よりも大物になったわけでもない」
「おおブッダよ、行き行きて、超え行く者。つねに超え行き、つねにブッダとなりつつある者」(大般若経)

●情動
仏教修行のひとつの重要な目標は、感情にコントロールされる代わりに、感情をコントロールすることを学ぶことにある。自分の感情を正しく、適切に経験する人間は稀である。人々は、ささいなことに怒り狂っては、その感情を不適切な状況に持ち込む、修行によって、少しずつ、あらゆる日常活動において瞑想的気づきを発達させていく。感情的反応にはっきりと気づくようになるにつれ、それらの感情は支配力を失う傾向を見せる。ある禅師は、もし怒るならささやかな爆発か雷鳴のごとく怒るべきだと述べた。そうすれば怒りは十全に経験されて、そのあと完全に忘れることができる。(鈴木禅師)怒るべからずという戒は、怒りが湧き上がったときに、怒りになるな、ということである。内側では静かなままでいて、怒りが湧き上がり、去ってゆくのを見守るがいい。その原因を見なさい。怒りというのは、常に何かそれよりも深いものの兆候だ。それは、何か変化が必要だということの外的なしるしなのだ。

仏教の理想とする感情状態は、慈悲である。慈悲はあらゆる感情の超越されたもの、つまり他のあらゆる存在との一体感だと考えることができる。

●知性
「むやみに非論理的な様相を呈することが禅の目的ではない。その目的は、論理的整合性が究極ではないこと、単なる知的才気ではつかめないある種の超越的言明が存在することを人々に知らしめるところにある」

●自己
自分自身をより大きな自己と同一化することは可能である。このより大きな自己は、全宇宙と同じくらい大きく、一切の存在、一切の被造世界を含んでいる。このようなレベルの理解は、悟り体験の本質的要素である。

●教師
「学問知識はさほど重要ではない。そうした教師の特徴は、他の人々と自分自身の意志力に及ぼす並外れた影響だからだ。彼らは、自分の利己的見解に頼ることも、いかなる強迫観念にしがみつくこともない。彼らの中では、修行と理解が完璧に調和されているからだ」「真理を教える師に会ったら、その身分や姿かたち、欠点や立ち居振る舞いにとらわれてはならない。その大いなる智慧への敬意から彼の前に頭を垂れ、彼を気遣わせるようなことは何一つしないことだ」
「禅師に従うということは、昔ながらの古い道に従うことでも、新たな道をつくりだすことでもない。それはただ、教えを受けることに他ならない」(道元)

●評価
「自分はブッダであり、自分はブッダではなく、しかも自分はブッダである」ことを悟らなければならない。(ケネット老師)
これは真実であると言い切ってしまうと、無常の原理を無視することになる。誤解も招きやすい。むしろ、「これはこうであり、これはこうでなく、しかもこれはこうである」と言った方がいい。

馬祖(ばそ)という僧にまつわる有名な禅話
師の南嶽(なんがく)が尋ねた。「感心な僧よ。おまえは座禅によって何を達成しようとしているのか」
馬祖は答えた。「一人の仏になろうとしています」
すると南嶽は、瓦のかけらを拾って、目の前の石でそれを研ぎ始めた。
「何の真似ですか老師?」
「これを磨いて鏡にしようとしているのだ」
「瓦を磨いて鏡になどなるものでしょうか?」
「座禅などして仏になれると思うか?」
「ならばどうしたらいいのでしょう?」
「荷車に乗っていて動かなくなったら、車をたたくか牛をたたくか」
馬祖は答えない。
南嶽が続けた。「お前は座禅で自分を鍛えているのか?座った仏になろうとしているのか?座禅で自分を鍛えようというのなら、座禅というのは坐ることでも横になることでもないぞ。修行で坐った仏になろうというのなら、仏に決まった姿などないぞ。定まったありかをもたない法というものは、分別を許さんのだ。座った仏になろうとしているのなら、それは仏を殺すことに他ならない。坐るという形にこだわるなら、本当の真理を得ることなどできまい」

「仏道修行者は、自分自身のためになどほとんど何一つしないのだから、何かを名利のためにすることなどできようはずがない。仏道修行者はただ仏道のためにのみ行うべきである」(道元)

禅において、宗教と日常生活は切り離されておらず、同じ一つのものとみなされている。実際的で平凡な経験に重きが置かれ、宗教の秘教的、奇跡的側面は軽く扱われる。「わたしにとっての奇跡とは、腹が減ったら食べ、喉が乾いたら水を飲むということだ」
「朝食は食べたか?」
「はい、いただきました」
「それでは、器を洗っておきなさい」

仏教の教えの狙いは、限定的、利己的な自我によって引き起こされる不満足と不十分の感覚を取り除くことにある。

「あなたは自分がこんなことを体得できるとは思いもよらなかったでしょう。そして、これはあなたの理知から出てきたものではないし、わたしが教えたのでもない。だとしたら、だれが教えてくれたと思いますか?」

「あなたは主人公を理解しました。自分が不滅だということも理解しました。永遠の瞑想も理解しました。しかしまだ、伝光録に言う、(ともに)が理解できていません。あの、ともに、は、あなたを取り巻く一切であり、あなたは、そのすべてをブッダとみなさなければならないのですから」
「つまり、イギリス女王やアメリカ大統領や天皇をも、あなたやわたしと同じく仏性の象徴とみなさなければならないということですね。でもそうすると、そこにはヒットラーまで含めなくてはならなくなるわけですか?」
「ヒットラーまで含めなくてはならなくなる、のではなく、われわれは現にヒットラーをも含んでいるのです。彼がいかに間違っていたにしろ、ヒットラーもまた仏性をもっているのだということがわからなければ、決して仏教を完全に理解することはできないでしょう。いつも仏性の一部を切り落としては、あの部分は綺麗じゃない、あの部分は感じが悪い、ということになります。それは成り立たないのです」
彼が語るはしから、わたしにはその意味が理解できた。わたしの中のどの部分といえども、決して切り落としたりできるものではない。どんな感情も、どんな感覚も、どんな想念も、どんな言葉も、どんな行いも、仏心から出てこないものはないのだ。
「食べることもトイレに行くことも、洗濯も床磨きも、みなその、(ともに)の一部なんですね。すべて仏性の表現なのですから。そして太陽も、月も星々も地球も、大地を耕すことも流れる水も、みな仏性の表現なんです。そしてこれをしゃべるわたしの舌も、口にする食べ物も、味の違いも」
「ヒットラーの話に戻ると、わたしたちが彼に我慢できないものを感じたり、ひどい恐怖心を抱いたりするのは、自分も彼がしたのとまったく同じことをしかねないのがわかるからだという意味になります。だれもが皆、潜在的には残虐性を持っていて、そのことにひどいショックを受けたからこそ、わたしたちは彼のなかの残虐性を抹殺しなければならなかったのです。けれども、わたしたちは、それが自分の中にあることを了解しました。善も悪もどちらも仏性の一部なのですから。ヒットラーの場合は、悪が優勢になるのを許したわけで、わたしたちはそれが間違いであることを思い知りました。わたしたちの過ちは、わたしたち自身の悪の面を受け容れたうえで、それを超越できなかったことです。戒を守るのがかくも難しく、わたしたちがそれを自分の血肉に出来るまで真理を授かることができないのは、このためなんです。わたしたちは、自分が悪くなれるということを知りたがりません。どうして戒なんか必要あるんだ、というわけです。だからこそ、出家というコミットメントをしないかぎり、誰も仏教の真理には踏み込めない。さもないと自分の不滅性についての知識をありとあらゆるかたちで悪用しかねませんから。自分の真の自由は知っても、他の人々にどう対するかとういうことなど、これっぽっちも気にかけないでしょう」
「まったくそのとおりです。とうとう、ともに、を理解しましたね。これから先はそこのところからつなげていけばいいわけで、理解も容易でしょうし、あらゆる人、あらゆるものを仏心のその、ともに、の側面として捉えなければならないということも、そこに現れているのが仏心のどの側面であるにしろ、それが常に戒のなかに含まれねばならないということもわかるでしょう」
「それなら、戒をわたしの血肉にするということは、最後には戒が不要になってゆくという意味になりますね」
「あなたの場合でも、戒の初歩の道徳的形態が既に不要になったということがわかりませんか?あなたは道徳を乗り越えたんです」

●禅瞑想
まず正しい坐相で坐ることが一番大切である。背筋を伸ばして緊張せずに快適に座れなくてはならない。禅の教師たちが言う、背筋を伸ばすというのは、背中のなかほどより少し下ぐらいで自然にカーブした状態を指す。(文字通り背骨をまっすぐにして座ろうとしても、背骨の自然なカーブを崩し、不快感と緊張を生じさせるだけである)

足は結跏趺坐(もっとも理想的とされる座り方で、両足がそれぞれ反対側のももにかかる)でも、半跏趺坐(左足だけが右ももに乗る)でもよい。頭はまっすぐ立てて、前後に倒れないようにする。正しい姿勢であれば、頭部は快適で、ほとんど重さが感じられないのが本当だ。両手は身体の前で手のひらを上にして組み合わせるが、そのとき左手が右手の上になって親指同士が軽く触れるようにする。

壁に向かい、壁面から集中しやすい距離離れて坐る。二~三メートル。視線は斜め前方、壁の適当な場所に落とす。完全に目を閉じないこと。

前後左右にそっと身体をゆすり、一番快適な姿勢を探す。軽く肋骨を持ち上げ気味にして、背中の下部が圧迫されず、背骨が自然にカーブするようにする。精神統一に入る前に、二、三回ゆっくりと深呼吸を行う。

ただ坐る。何もしようとしないこと。また逆に何もすまいともしないこと。とにかく肯定的な心構えでただ坐る。

「ここからは、意図的に考えようとも意図的に考えまいともしないこと。いいかえれば、想念はどうしても頭に浮かんでくるので、それに対しては、相手になるか、でなければただ坐って頭をまっすぐ通り抜けてゆくのを見守るか、二つに一つの態度が取れる。座禅には後者が必要である。ただ坐り続ける。想念にかまいだてしないこと。それらに乗っ取られたり、それらを押しのけたりしないこと。どちらも間違っている。
わたしはよく、瞑想を橋のたもとに座って人や乗り物の往来を見守ることになぞらえてきた。去来する想念はしっかり見守らなければならないが、いかなる形であれそれらにとらわれてはいけない。もし想念にとらわれたら、それも良い。はじめに戻って、また瞑想をやり直すだけのことだ。

●瞑想と活動
瞑想とは自分の思考や感情にとらわれないことを学んで、静けさと中心の決まった気づきとを培う方法だといえる。静かに座っているときにこの瞑想的な姿勢を理解できるようになれば、この感じを外的な活動にも広げられるようになるものだ。
まず一日一時間の瞑想的活動から始める。最初に五分間坐って、その後一時間気づきを維持すること、様々な想念や感情や活動の観察者にとどまるよう自分に言い聞かせる。もし何かによって中心から引き離されてしまったら、やっていることをやめて、最初の静穏と気づきを取り戻すよう努める。一番やさしいのは、掃除、料理など一時間の静かな肉体労働からはじめることだ。それにくらべて、知的活動は難しいし、会話となるとなおさらである。この実修を日常生活のより広い範囲に拡大してゆくにつれ、自分はどういうところが一番敏感で乱されやすいかがわかってくる。そういう状況をリストアップして、そのリストから何か学べるかどうか考えてみる。

-意識