キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

意識

抑圧と没我の違い。自我という牢獄を手放し、生命エネルギーWANTと共に在ること。

真の本体は、電撃のように人を動かす生命の光であり、その場所を、ある人は他力と呼び、自己と呼び、大我と呼び、天と呼んできた。自我(エゴ)を持ち、それを主張し、自分の取り分を要求すること、自分の土地がここからここの線だと明確にすること。これが現代人一般に流行していることだが、それはあくまで表層であり、全てではない。社会空間が、西洋化され、人々が生活する上で、そのような区別意識の元になければ生き残れない側面があるが、そのような単層が全てと思ったとき、現実は矮小化し、歪められ、豊かさが遠のく。没我とは、自我を空にするからこそ、真の大我が目覚めることに意味があり、そこまで至らない場合、没我に見えるような抑圧となり、被害者意識が強まる。抑圧されている自分というものを解放したい、ということが、浅いレベルでは、社会的に自我を主張し、エゴを強力に押し強める方向となる。誰もがエゴを推し進め、結局誰もが自らのエゴに夢中で、受け取る者は消え去る。どこまでいっても解放されず、ますますエゴが強まっていく。現代人に平均的な態度とは、エゴを生きたいということで、それは、本来の生命を生きたいという願いが、変質してしまい、表層社会で自我を目立たせたいということに留まり、悪循環を起こし、生命を生きる道が閉ざされてしまう。没我はむなしいことではなく、没我の先には、豊かな黄金があり、それを誰もが手にすることが出来る。そのような豊かな黄金に近づいた人間たちが、それをあらゆる分野で業績として打ち建てた。我とは牢獄であり、その者を縛り付ける。エクスタシーとは流れ出すことであり、自らの我という殻を破って流れ出すことであり、豊かな美しいダンスは、我を超えて、生命の光が宿る。そのとき人は、神が降りてきた、と言う。人が光明と呼んできた深いハラの底で龍動し、湧き上がるWANT、これに従う道こそが人間が自らの生命に従い、全うし、自らという人を使役し、真に生きることである。自我抑圧、奉仕による疲労、鶴の恩返しのように自らを犠牲にして捧げて、その報いを期待するという所を超えることが出来る。自我主張の報われない英雄ごっこを超えることが出来る。エゴを捨て去ったときに、光がやってくる。一般には、鶴の恩返し的な心性によって、いつか報われると考える。しかし、自らの生命を犠牲にすることは続かない、生命の原則に反しているから。まして、自らの生命を犠牲にして、他の生命を救ったところで、プラスマイナスゼロとなる。それが真に光から発したことであれば、美談とはなるだろうが、多くは、報われない自己犠牲は続かず、いつかそれは、反転し、周囲に犠牲を求めることになる。自らがこんなに犠牲になっているのに他はしてくれないと被害者的にもなる。一貫しない慈悲はしない方が良いと親鸞が言うのはこのことだろう。勇気を持って自らの生命を生きる。喜びを生きる。それだけが、周囲の人間に対しても、影響を与える。人は多く、自分のことで精いっぱいで、耳を傾ける余裕がない。どんなに重要なことも、その人にわかるときがくるまで、それは耳を素通りしていく。どのような言説も受け取る人次第、教育は言葉では出来ない。勇気をもって己の生命を生きる姿勢でしか伝えられない。人の為になるとは、自らという人の為に、自らに動く生命のWANTと共にあることが最大である。人間のひとりひとりは惑星と同様であるが、高度を上げれば、ひとつの青い球である。青い球の一部分の生命が活性化することは、青い球全体に奉仕することと同じである。地上では、ひとりの人間の生命がしかとハタライタということであるが、ひとりの人間という区別は、浅い意識が為せるものであり、それは昼の夢である。深い意識では、数珠繋ぎ、切り離せない全体、これがこの青い星という身体である。夜の夢による目覚めは、すべてをつなぎあわせる。

わたしの生命、そのWANTと共に生きることを実践すること、わたしという青い星の一部分を活性化すること、これこそが、一貫した慈悲となることにいつか導かれた。

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