内的資産:男性原理の道具箱
男性とは何か。女性とは何か。ということが、長らく関心事で、現在もそれは続いている。人は物事を二つに分けて把握する。神話では、天と地が分かれるところから世界創造が始まる。混濁して一体となった闇の世界を、真っ二つに切り分ける光が一筋射した。人類は、生まれたばかりの意識で、真っ二つに切り裂かれた天と地を認めた。このとき、世界が創造された。視るものの意識によって世界が創造され、そのシステムは、一を二とした。□=凸凹。男と女の二が認識され、それは世界と同様に、三を産んだ。三は新たな一となり別の一を求め、億万の夜に、天と地に響く太鼓を響かせ、この現在でも留まることを知らない。男と女に違いがないのであれば、一つになる価値もまたない。元々同じものであれば、どのような合一も不可能であり、そもそも同じものは、既に分けることが不可能であり、分かれていないのであり、男も女も存在しないということになる。しかしそうではなく、身体的な差異が存在し、意識の違いが存在し、だからこそ、合わさる時に、劇的な価値が生じる。個体差があり、その雄雌システムの配合は、千差万別であり、身体、意識、その個体の優劣バランスも多様である。しかし、それらを抽象的に高めて視るのならば、男と女というものを象徴的に語ることは不可能ではない。男性性は、棒をイメージ出来る。女性性は器をイメージ出来る。それは身体的な特徴を現し、同時に、意識における男性原理と女性原理の比喩でもある。
男性原理は、大地に立った柱、石を思い浮かべる。それは立っている。棒状に突き立っている。自然に抗い、頑強に立っている。その棒は、剣やペンや指揮棒として分化して見ることもできる。切り分け、言葉を操り、行先を指し示す。更には、鍵と時計の針を加える。空間と時の管理を意味する。ここに笛を加えても良い。それは、ヘビを操り、楽しませ、リラックスさせる。感情のコントロールを意味する。わたしたちの創造システムに任せると、どこまでも分化していくので、このへんで十分だろう。ユング心理学の界隈に倣えば、男性原理は、力、スピード、行為、意思、言葉、意味というところだろう。しかし、これでは、わたしの日常生活で、男性原理の使用をイメージしにくい。すぐに意識に結び付けられる内的資産として持ち歩くためには、イメージ、象徴として所持する必要がある。剣、笛、鍵、時計。この四つのイメージを内的資産として登録し、道具箱に入れることにする。剣には、ペンや指揮棒も含めてイメージし、決断、分けること、方向性を示すこと、向かうこと、行為すること、意味を言葉で操る力である。このような力が必要な場面で、わたしは内的な道具箱を開けて、剣を握りしめる。そのイメージは、迅速な決断、明確に分けること、行為すること、意味を操ることで、そのような力を発揮する際の意識の構えとして、剣を握りしめる、抜いている感覚を持つと、しっくりくる。笛は、感情をコントロールすることが必要な場面で取り出す道具で、使用頻度が高い。自分自身の感情をコントロールすることは、周囲の感情をコントロールすることにつながっている。ヘビを休ませ、なだめ、楽しませる音色が必要な場面では、笛を取り出すとうまくいく。鍵は、空間を管理するための道具で、人間が安全を必要とする以上、閉めたり開けたりするキーは、その空間に所属する人々を守るということにつながっている。時計は、そのまま時間の管理を意味する力である。
わたしは男性原理そのものではないし、女性原理そのものでもないし、その中間でもないし、その優劣を述べたい者でもない。わたしは身体的、文化的に、男性として視られており、男性としての期待を持たれていることを知っている。その為、男性原理のイメージを象徴化した内的な道具箱を開き、使用することが、この文化と時代の中で、役に立つことを知っている。剣を取り出して、決断したり、物事を分けたり、方向性を示したり、言葉の意味を操ったり、笛を取り出して自分の感情をコントロールしたり、周囲を楽しませたりなだめたり、鍵を使って空間全体に目を配り安全をもたらしたり、時計を取り出して、計画を立てたり時間をうまく使ったりすると、男性として尊敬され、それを怠っていると、男らしくないなどと言われたりする。わたしは男らしくなりたいわけではないし、女らしくなりたいわけでもないし、その中間になりたいわけでもないし、その優劣を述べたい者でもない。男性原理的な意識を使用することが、可能であるようにしておくことが、長い目で見て、自由につながっているという認識がある。使用の必要がなければ道具箱に置いておくことが出来る。剣や笛や鍵や時計を使うと、その機能と使用した個体を混同して、「男らしい人」などと言われることもたまには面白いが、目に見えない道具を使用する喜びの方が勝る。
男性原理の道具箱=剣、笛、鍵、時計