キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

女性性と男性性

女性原理と男性原理1「内なる異性の認識、意識統合への道」

2016/07/09

女性原理と男性原理の話をしよう。書き方にはいくつか種類があるが、わたしは結末がわかりきっていることを、目的地に向かって書くということを好まない。書くことで、書いている現在という乗り物に乗ることで、導かれていくようなやり方を好む。男性原理と女性原理について、以下に掲載する文章は、2010年頃にノートに書いた。河合隼雄は、父性と母性について著作で考察している。その影響下に、「河合隼雄の宿題」に答えようとするかのように、それがやってきたのだと思う。

現在、わたしは2016年にいて、女性原理と男性原理についての問いは、深まり、変容し、新しい見方が獲得されている。現在の視座から見ると、以下の文章は、男性原理と女性原理という分け方に固執しており、それも芸術分野に限った話が主となっている。コトバの塔において先に公開した「意識拡大の虹」よりも前段階で書いたものでもある。しかし、新しい智慧を獲得しようとしている興奮と必死さが感じられ、まだ具体性は伴っていないが、日常生活に照らしても概ね納得できる。男性原理と女性原理について書いた本をいくつか読んだが、生活において、職場において、社会において、役立つように書いてあるものをわたしは見つけることが出来なかった。その為、わたしは、日々の生活の中で、男性原理と女性原理について試し、思考してきた。そのことでわたしの世界は豊かに拡大し、人格はより柔軟なものに変化し、内的にも外的にも富が増した。その過程をこのシリーズで全て公開する。その最初の記念碑が下記のようなものである。

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女について考えている。わたしの内側に存在する「おんな」のことでもある。それは、顔色を見るもの、安全のために盗み見を欠かさない態度、相手を感受するということに思われてきた。わがままな、快楽を求め、安心と安全を求める、感情的で感覚的、共感的であり、飲み込むもの、大地や海のようなもの。「しぼりとろうとするもの」この世の快楽を限りなく感受しようとしているもの、人生を限りなく味わおうとしている、感覚のかたまりのようなもの、優しさ、豊かな曲線、なめらかなもの、きれいな丘。それらは儚く、美しい。

男の強さを持ちながら、「おんな」であろうとすること。これが芸術創造や共感の鍵となっている。芸術家とは、創造的であるということは、男が「おんな」の部分を持つこと、両性具有的なバランスを持つことかもしれない。何も芸術に限らず、人格の発展というものが、両性具有に近づかせるのかもしれない。「おんな」は感じる、感受する、飲み込み、味わい、しぼりとる。安心と安全を与えてくれる、更なる人生の快感と味わいを約束できる、強い男を求めている。その為に、感受性が磨かれる。それは、子供の異変にいち早く気付ける力ともなる。女たちは、つながりを持って行動するのが得意であり、これも、感受性、感情同一性に優れるからであろう。

女は、男にはない自信を持っている。しかし、男が、女と同様のものを持っている場合がある。外的な強さ、「おとこ」らしさを持っていることには、一種のこわさを感じている。同時に男は鈍感で処しやすいと見える。しかし、「おとこ」だけではなく、「おんな」を持っている男というのは、ある意味で、女の自信を打ち砕くようなところがある。なぜ産めないものが、それを知っているのか?なぜ、感受できるのか。ただし、「おんな」になってしまっている男というのは、こわくない。処しやすいから。それは、「おんな」の最下層に位置する男だから。男であって「おとこ」ではなく、「おんな」になってしまっているから。「おんな」に憧れて、男でなくなってしまった、中途半端な存在で、両性具有にはほど遠いから。

そして、強くておそろしいばかりでなく、弱さを持てる男というのは、「かゆいところに手が届く男」であり、ほとんど理想のように感じさせる。理性があり、感受する力があるのならば、それは大きな手であり、あらゆるところに届く手なのである。それは、「おとこ」の手と「おんな」の手を兼ねる。千手観音の像のように。感受性は、「おとこ」としての強さによって形を為す。能動的な強さがなければ、受動的に得た感性は、形を取り得ない。意識の力で、起きるべき時間に起き、自身を管理し、行動するということは、より眠りたい、より楽をしたい、感覚を愛でたい自身の弱さ、ランダムな気分に戦いを挑み、克服するということである。意識の強さが、自由なもの、気まぐれなもの、まさに自然無意識とでも言うべきもの、ときに自然災害ともなるものを、治めることができる。あるいは対決し、協調することができる。西洋的な見方をすればだが、ここでわたしが述べている「おとこ」とは意識であり、「おんな」は無意識を現しているかのようだ。男性原理と女性原理と言っても良い、意識と無意識、能動性と受動性、思考と感情である。

わたしが、女を評価してきたのがなぜなのか、いまはよくわかる。男でありながら「おんな」の部分を目覚めさせ、発展させ、創造へと活かそうとしていた。「おんな」はインスピレーションの源泉であり、謎、未知のもの、論理を受け付けないもの、自然がそうであるように、気まぐれな、豊かな丘、美しい曲線であったのだ。わたしは女に学ぼうとしているところがある。あるいは「おんな」に。友人の愚痴に頷く女達の姿にはっとすることが何度あっただろう。おしゃべり好きで感覚的、この世の収穫を根こそぎ搾りとるもの。詩人にとっては、実際の女達は、まさしく感受性のかたまりであり、才能、創造力のように見える。

現代社会では、働く女達は、「おとこ」になっている例が多い。「おんな」を抑圧、あるいは抑制している。その為、わたしの中の「おんな」の部分が、「おとこ」になっている女達と呼応し、結合する。「おとこ」になっている女達は、男の「おんな」の部分に安心を感じる、ほっとする、素直になれる、ということになる。同時に男達にとっては、例えば、わたしが発達させた「おんな」の部分に呼応し、安心する、ということがありえる。実際の女達が、学業や社会生活で、「おとこ」となっている中では、男が内的な「おんな」を高めれば、そういうことが起こりうる。「すること」(男性原理)に対して金が払われ、「在ること」(女性原理)が低く評価されている為に、後者が現代社会において欠けてきているものと言えるかもしれない。

わたしの中の女神は、存在する力である。ただ、ここに在ることの神秘を知っているものである。一方、外的な強さ、知性、判断力、冷静さといったもの、「おとこ」の部分と同化したときには女達は喜ぶ、というよりも、「おとこ」を見つけた、ということで、護ってくれるもの、門番をそこに見出し、つまりは投影し、投影できたことで、彼女達の「おとこ」の部分、男性原理を内に抱える必要から脱することができ、(西洋人がキリストという父に投影するのと同じように)肉体に由来する性、彼女達の本能が活性化する。もし投影できるものがなければ、彼女達は、みずから男性原理を担う必要に迫られ、それは、自然に反している為に、誤りを引き起こしやすい。(個人差はあるようだが)頼れるもの、安心して感覚を楽しみ「おんな」であることを許すもの、それが「おとこ」かもしれない。それが本当に強力な「おとこ」であれば、「おとこ」となっていた女達は、安心して「おんな」になることができる。彼女たちが「おとこ」にならざるを得ないのは、周囲に「おとこ」がいないせいである。「おとこ」を投影できる男達がいないせいである。

少し整理しよう。わたしの中には、男性原理と女性原理があり、一般的には、わたしは男性の肉体を与えられて生じているため、男性原理を身につけ、それと同化していることが、要請されていると言える。(ただし、日本という東洋の国が、母性的な国であり、父性を現すことが場を壊すものとして危険視される現状に留意がいる。男性原理の中の息子的なものが許され、父的なものが抑圧されているのか) 外的現実を忘れて良いほどの特権を与えられていないものが、創造的であるということは、内的現実や「おんな」や女性原理に取り組むということには、危険がつきまとう。外的現実で生きることの困難が生じてくる。両原理の平衡や統合が可能となれば、ある時には「おとこ」として揺るぎなく立ち、顔を見させ、戦い、あるいは門番として守護することができ、ある時には「おんな」として相手の顔を見て感受し、共に在り、つなぐことができる。「おとこ」の部分は、決断し、護り、行う力である。「おんな」の部分は、霊感とも言える、目に見えない感情をつかみ、休息を与えるものである。外的現実において、女が安心し心置きなく「おんな」である為には、男が、「おとこ」であることによって、外的現実で、金を稼ぎ、計算し、決断し、火を起こし、調整することによって為される。わたしの中の「おんな」が自由な創造性を水のように発揮するためには、外的現実を生きる強さ、「おとこ」であることが必須となる。このバランスを失えば、例えば「おとこ」として生き抜く力が、固く鍛え抜かれるが、霊感を失い、人々や自然とのつながりを失う。例えば「おんな」ではあるが、生活の糧を得る強さを失い、生き抜くことができない。

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