精神と身体、心身一如について。人が幸せでいるのには、心身一如であれば足りる。
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精神と身体という分け方は、魂と物、光と物質という人間の世界把握の延長線上にある。本来ひとつのものを二つに分けて把握し、精神は精神、身体は身体として分析することの長所がある一方、全体的な視野が失われ実相から離れる短所がある。
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精神の仕事と身体の仕事と、人は二つに分かれているものと考える。それらは区別意識というメガネからは二つに見えるが本来ひとつである。精神の仕事は、それに比して身体的な負荷として現れる。身体運動の全てが、精神の現れである。身体労働は、精神修養につながる。精神は、かたち(体)に現れる。
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家事、労働、スポーツ、文化活動は、すべて精神と身体の合一によって行われている。精神のみ、身体のみの仕事ということはありえない。精神は身体を必要とし、身体は精神を必要とする。(そもそも、ひとつである。人間の意識発展の過程では、二つに分けることが便利であった為、その二つが再び出会う、合一するという表現になる。記述するには、二つに分けたポイントはやはり便利である)行為するということは、精神と身体の結婚であり、光と物質の合一である。太陽の光とそれを受け取る青い星の関係がその象徴として優れている。皿を洗う、料理をする、買い物に行く、散歩する、仕事をする、これらはすべて、身体運動であり、精神の動きでもある。精神的な仕事は身体を動かすことで始まる。身体を動かすことが即、精神の現れである。精神は身体によって表現される。生活する、ということは、精神と身体が一体となった奇跡の現象である。日々の生活、一刻一刻が、一日一日が、心身一如の味わいに満ちた時間である。これ以上のビッグイベントはなく、最大の喜びの源泉である。
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精神の不調と思われているものは、原則として、身体の不調と同様である。もし動かせていない身体の部位があれば、固さを持つことになり、それはエネルギーの滞りを意味する。それはその者の精神の滞りと呼応する。流れていない感情が存在するか、表現されていないエネルギーの集積が想定出来る。生命エネルギーは、全て表に現れようとする。それは天体と同じように運動する必要がある、そのエネルギーは個人が貯蓄しておけるものではないため、世界に放出しなければならない。心身のメッセージを扱わないでいると、それは地震や雷のように、放電される。放電されず、その者の中で渦を巻くときが最も危険で、毒となる。山登りや皿洗いなど、身体的な負荷をかけるのが良い。しかし、それも一時的であるから継続的な身体運動に導くのが良い。すなわち、一日一日、一時一時、一刻一刻、現在を生きる態度の修養となる。
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現代人の生活と教育スタイルとは、一般に、身体を固定することへの啓蒙となっている。自らの体を縛り、固定し、机に黙って座っていることがまず奨励される。それは精神と身体の分裂を準備する。机に黙って座って授業を受けられない者は、叱責を受ける。その躍動する身体は、抑圧される。実は、その固定によって、精神の幅も同様に抑圧される。支配する者と支配される者の構造とは、まずもって身体を拘束することで、その精神も同時に拘束し、支配する者、統治する者にとって予測できる、予測範囲内に収まるように管理することである。見えない牢獄に入れることである。現代人の影とは身体であり、それは未だ抑圧傾向にある。身体は驚くべき力と神秘を宿しており、自由な身体=精神とは、予測不可能な漲る力である為、限定的な枠を設けることで、スポーツ、ダンス、演劇、様々なルールの元でのみ解放される。軍隊式、奴隷式の教育によって、身体を固定することがデフォルトとなり、その固定とは滞りであり、凝りであり、生命本源のハタラキ、自然から離れるため、喜びから離れる。部屋で一人でいるのにも関わらず踊るということが気恥ずかしくて出来ないような者を大量生産し、不幸を生み出す。踊り、歌、まぐわいは、人間の原始的な喜びである。身体を拘束し、固定することへの若年者への餌は、未来である。未来の生活、未来の地位、未来の富を餌に、身体の固定と現在を損なう態度が習慣化され、頭でっかちの机上の空論のみに長けた、偽物のインテリを大量生産する。彼らは精神と身体が同一のものであると聞いたことがあるが、その意味が腹でわからず、頭でばかり考えて何も行うことが出来ない。決断力に欠け、誰かの指示を必要とする奴隷、囚人状態に誘導され、流動化が激しい現代では、リストラ、倒産など、未来の予測は困難であり、再起しなければならないときに、身体レベルが低く、未来の不安に押しつぶされ、どのように行動したらいいのかわからない。未来幻想を生き、与えられたレールを歩んできた者が、突然、未来が見えなくなり、方向性を見失う。その危機は、未来の幻想ではなく現在を生きること、一刻一刻を生きること、一日一日を生きる修養を得るチャンスとなる。
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ミケランジェロは天井の壁画を描いた後、首が元に戻らなかったし、梅原猛は右手で大量の執筆をしてきた為、背骨が湾曲しているそうである。精神活動は、肉体労働である。心身一如となっている者の精神活動は、全て同等の身体活動によって支えられるのが道理である。また、精神と身体が高いレベルでつながっていなければ、その仕事は、無理なことである。精神と身体が分裂した、つながりが希薄となった机上の精神は、痕跡を残さない。それは軽く、浅く、部分的であり、自然から離れる。ハラで理解する力が低下し、文化低下につながる。若年において、身体固定の習慣は、せっかくの心身一如を分裂させてしまう。偏差値テストの勉強のために精神と身体を分裂させ、身体固定の習慣を得るよりも、身体能力を低める危険を犯すよりも、まずもって身体開発に比重を置くべきである。人が幸せでいるのには、心身一如であれば足りる。真の富は、生命のみ、この心身のみである。未来に生きる習慣、未来に得られるであろう富や地位が、人を幸せにするのではなく、心身一如であるから喜びが湧いてくるのである。不良としてレッテルを貼られるような者たちはすべて、身体解放の方向性に向かっている。踊り、歌、まぐわいの根源的喜びは、暴力、暴走、街でのスケボー、ダンス、バンド活動、恋愛。そこには現代教育に欠けたものを補償しようとしている動きが見られる。会社員たちがジムやヨガに通ったり、ジョギングするのも自然の理に適っている。ヨガとは、ひとつに結ぶことを意味し、それは心身一如を回復しようとする動きである。時代を教育する芸術家たちの作品は、心身一如となった魂の自由な龍動であり、精神と身体を分裂させるような教育構造、社会構造への痛烈な批判と人間生命に対する強い信頼を表している。身体を開発することで、人間は、多くのことを自力で行うことが出来るようになる。身体的に楽をするために、便利な商品を創るということで、余計な物資が必要になり、この星が汚れ、資源が枯渇し、身体能力が低下し、心身一如から外れ、なぜか幸せを感じることが出来ない、というパターンを変更したい。心身を開発することがそのまま幸せにつながっていく。このようなことは当たり前の常識であり、わざわざ言わなくとも、産まれたときから、わたしたちは知っている。わかっている。「わかりますね?」「わかります」