身体意識、独特の重圧感、重量感についてのおしゃべり
2016/11/25
身体にかかる重量感について、高岡英夫は言語化している。宮本武蔵「五輪書」の解説のようなものを書いていたときの実体験に基づく記述なのだが、「徹底的に解析し切り、真髄に迫り切る仕事をしていくときには、独特の重さ、重量感というものが発生する」と書いている。そのことを仕事が肩に重くのしかかるというような表現をした研究者もいた、と書く。彼は、期限であるとか、責任の大きい仕事だとか、非常に困難な仕事だからといって、重量感が出て、のしかかるわけではない、と注意書きもしている。一般に肩の荷とか、双肩に担うとか、そういう言い回しがあるが、高岡英夫は、肩だけではなく、全身のすべてに重みがかかってくる独特な感じだと書いている。そういう重量感が生じるときを、自分自身がより真髄に迫っている合図のように彼は捉えている。「五輪書」の初校のときに、凄まじい重量感に襲われた実体験を、彼は、鉛とか金とかの物質が液体状になっているところを、その重みの中を斜め上に向かって進んでいく感じと表現している。進まなくて圧力でつぶされそうになる感じで、骨や筋肉や内臓や微細な繊維など全身のパーツのひとつずつが全部重みの中を通っていて、まんべんないその重みに押しつぶされ、押し流されそうになりながら進んでいく感じで、「典型的に身体の実感から来る、身体と直結している精神の実感はそうなんです」と語る。関心を抱いていたことなので、非常に面白く拝見した。
1
以前バーンアウトしたことのある元管理職の人と話していた。彼は組織の葛藤に挟まれ、やがて頭に見えない重いヘルメットを被らされたような重圧感に悩み、その後病院に行って、うつ病と診断された。頭に重圧感が生じたと彼が話した内容に、わたしは強い関心を持った。
2
同様の着目で、「ユング自伝」に、ユングが重たい岩が自分に被さってくるような重量感、重圧感を書いた箇所がある。それはフロイトと別れた後の方向喪失感の中であり、同時に彼が最も重要な研究を行っていた時期でもある。
3
わたし自身の身体の感覚からいくと、まず頭に重量感が生じる場面があった。それは、孫悟空の輪のように、頭を締め付けるような重さであり、そこで目を開け続けていると、涙目になるような、その状態が長く続くと、クラクラしてくる。当初は、これが一体何なのかわからなかったが、わたしの場合、まず仕事の場で、このような状態に襲われるようになった。この頭に生じると感じる重圧は、あまりにも重く、一体、自分はこれにどう対処すればいいのかわからなかった。試行錯誤のあと、この頭の重量感から逃げるのではなく、この重量感と共に在ることを自分に許す方向となった。身体が重圧感で押しつぶされそうになると同時に、自分の思考が大変鋭く、パワフルになることも発見した。
4
最初は、この重圧感、重量感、身体の重たさが何かの病気なのではないかとわたしは疑った。それはあまりにも重く、あまりにも苦しいのである。他の職場の人間は、リラックスしているように見える何でもないときに、なぜ、このような重圧感に襲われているのか意味がわからない。このことに関して、わたしの最初の仮説は、わたしという個体の無意識、本能が強い為、それを縛り付けるときに、それ相当の重圧が生じるのではないかと考えた。個体が運良く、時代流行とマッチする場合には、その社会適応において、何の問題もない者がいる一方、その無意識や本能の力を解放する場を用意出来ない個体は、その社会適応上、困難を引き起こすのではないかと考えたのだろう。一部、この見方は、この身体の重圧に意味を与えはしたが、おおざっぱであり、特に新しい展開を生みはしなかった。
5
ユングの書籍の中で、ぼーっと座っている未開人に話しかけると彼らが怒り出す、ということをユングは書いている。つまり、せっかくぼーっとしているのに、意識を使わせるようなことを問いかけると、そのしんどさに彼らは怒り出すようなのだった。またユングは、原始的な思考と本物の思考を分けて論じていた時代があった。つまり、原始的な思考とは、連想的な思考であり、それは、本来の意味では思考ではないとみなされていた。わたしは職場を観察してみたが、多くの人間が、連想的に話す、彼らは、その間特にしんどそうには見えない、重量感が生じているようには見えない。会議であれ、職務遂行場面であれ、それは良い意味でも悪い意味でも、余分があり、思考というよりも、それは連想であり、連想的に話すということは、思いつくように話すということであり、それは楽であり、感情的であり、雰囲気的にも良いように見える。真に思考を使用することは、身体に重圧を生じさせ、それは、見た目的にも強く固く見えるらしいことがだんだんわかってきた。我が国の風習では、どうも、恐そうとか、怒っているとか、冷たいとか、厳しい、という風に見えるらしいと感じるようになった。つまり、この島では、思考という剣は、見せない方向性が良しとされている。本物の思考とは、例えば四天王像、あの強い顔をした四天王たちは、足元で獣や鬼を踏みつけている像となっているが、本能を強く踏みつけることによって彼らは外面にも強く現れている。その思考の剣を手にした姿は、仁王のような強い外面となる。本物の思考を持つことは、身体とつながった精神の力とは、雰囲気(動物性)を踏みつける、抑える強さが、そのまま、剣(思考)の力になることを示していた。本能を抑える力がそのまま外に現れる力となっている。静謐な仏と四天王の像とは、心理学的な象徴を宿しているのだった。
6
わたしはその職場で、本能が強い酔っ払い、脅し文句を言う強面、暴言を吐く者、強者の態度で威圧してくる者を、一対一でわたしが対応することになっていった。その場面では、わたしが剣を抜き、見た目が仁王のようになろうとも、むしろ利点であり、職場にも喜ばれる。雰囲気を最重要視し、連想を主とした柔らかく楽しそうな会話ではなく、鋭利な思考と重圧に耐えることの出来る身体の迫力が必要な場面であるから。わたしに生じた身体の重量感、重圧感は、思考の剣を握るときには、避けられないものであり、そしてそれは役に立つ場面があるとわかっていった。社会不適応と思われたものが、むしろ必要とされる場面が現れてきた。「どうやってあの人を帰らせたんですか」とわたしは一対一の対話が終わって、クレーマーや力に訴える者を帰らせた後によく聞かれた。口に出して答えることは出来なかったが、簡単に言えば、わたしよりも上が来れば帰らせることは出来ない。わたしの方が上回れば、相手を帰らせることが出来る。それだけだった。社会適応している人であれば、相手が総理大臣や天皇であれば、大体は言うことを聞くだろう。社会からはみ出て、ただ野原にあり力で訴える者に、肩書や地位では言うことを聞かせることは出来ない。一対一の戦いで、わたしの方が上回れば、相手はそれを本能で了解して帰っていく。わたしより相手が上であれば、彼の訴えを収めることは出来ない。森で出会った動物同士の命の取り合いのようなもので、そしてそのときこそ、生命と生命が最も近づく。そこに満足して帰らせることが出来る理由があるのだろう。関係がキレている人間、孤立している人間だからこそ、そこに暴発が起きており、キレているのであり、その人間の求めているものは、その者自身でも気づいていないが、接触なのであり、接触への飢餓状態が、強い接触、深い接触を求めて動き、それは時に、公の人間にぶつけるというかたちを取るかのようだ。また別の視点では、多くの人は負けることを求めている。所属したいと感じている。壁を感じたい。壁があり、上位の存在を感じることで、壁の内部で生きるエネルギーが生じる。もし、上位の存在を感じることが出来なければ、もはや誰のせいにも出来ず、どこにも所属せず、自ら世界を相手にしなければならない。龍を倒してしまうよりも、龍に文句を言いながら従う方がノーマルだ。負けることで、師匠や先生や先輩や偉人を持つことが出来て、その者は所属し、世界観に安息出来る。もしどこかに所属出来ないのならば、深刻な危機となる。対等な関係を当然のものとして、それが相手への配慮であり礼儀であり常識であり、喜ばれるものと思っていたが、むしろ、対等に接すると不安定になって怒り出す者たちがいて、彼らは、とにかく上に立ってほしい、上位の者を求めているときがある。対等に接するということは、あなたの責任はあなたが担ってくださいねという態度でもあり、責任を担ったことのない者は、必死になって抵抗し、責任を所持してくれる上の者を見出そうとするかのようで、先生のようなカリスマを演じた方が受けは良い。上位の者に人が求めるものはたくさんあって、その中のひとつは、話を聴いてもらい理解してもらうことである。話を聴くことは、その言葉と言葉を発している身体の動きを含めて、その大量の情報を、そこで受け取り、実際にその情報についていくことであり、聴く者は、その嵐に直面しなければならない。その上で話す者の器に合致した何らかの応答を種々選択しなければならない。話を聴いて、一番自分が話したいこと、初めに思い浮かんだことを言っても受けは悪い。それは相手の器を考慮していないからである。相手の器に合わせた応答でなければ、相手には伝わらない。話を聴くことは、多くの情報処理を心身に課すことになり、危険であり消耗が激しい。基本的に対価なく行ってはならない。それは歴史的には、仏像やキリスト像の仕事だ。真面目に話を聴くことは狂気の沙汰であり、日常とは話を聴き流し、適当に連想で話し、聴きたいことにだけ反応するというのがノーマルだ。真面目に話を聴くということは、心身に重圧を与える。剣を持つということは戦いという極限状態に入ることでもあり、話を聴くことも同様、真実直面するということの派生なのだろう。高岡英夫の言うように、身体に直結している精神の実感は、「真髄に迫り切る仕事をしていくときには、独特の重さ、重量感というものが発生する」というのは妥当かもしれない。生命に対面することも、思考の剣を持つことも、直面するという仕事に関わっている。真髄に迫ろうとしている。そのとき、確かに重圧が発生し、身体がきつい。
7
身体に重量を生むような精神の現れ、思考の剣を持つことは、闘争本能が文化的に昇華されて言葉や態度を操ることであり、わたしの観察と体感では、頭を締め付けられ、頭部が光っているようにつやつやし、重圧が強すぎるときは、クラクラして倒れるのではないかと感じる、おそらく、何か闘争に関係したホルモンが出ているのかもしれない。身体全体もオーラに包まれているようなイメージであるが、そのときは、身体全体が重い。一度その状態になると、大げさに言えばスーパーサイヤ人のようなイメージなのだが、翌日もその翌日もその状態が取れないときが当時はあった。まだ融通が利かない段階だったのだろう。今度は、不要なときに、この重圧感が取れなくて困っていたのだが、こういうときは、職場の人はなぜかいつもより、ササッとわたしを避けるような所がある。顔を見合わせると、わたしの身体に生じている雰囲気は、相手に伝わり、それが相手にとって不快な感じとして捉えられているようであった。おそらく、わたしが耐えている重圧の感じが、何かしら相手に伝染し、それは一般的には、緊張感と言うのがいいのかもしれないが、その強い緊張感を相手が本能的に避けているような感覚を得る。威圧感のように感じるのだろう、わたし自身にはそういう意図はないのだが。わたしは礼儀正しく職場の人間と接する方だし、その重圧が生じていないときは、わりと柔らかい、また愛想にもそれなりのエネルギーを注ぎ込む。つまり、相手との関係は悪くない。しかし、わたしが思考の剣を持った状態、身体重圧に耐えている状態のときは、相手はわたしを避けているような感じを得る。怒っていると勘違いされたこともある。四天王像のように、わたしは厳しく、恐いように見えるらしいとわかった。それは力に訴えようとする者を帰らせることの出来る仁王の態度なのだから、恐がられるのも当然なのだろう。村を襲う化け物を倒したからには、わたしが化け物となったのと同じことであり、古い言い伝えでは、そのような者は、自らを去勢する。去勢しなければ、龍を倒した者は新たな龍となるのと同じであり、はじめの英雄は、やがて村の厄介者となる。自然の力にアクセスする戦士やシャーマンは、人里を離れていなければならない、平和や楽しい世界には不要なものだから。特に人との交わりで、感応性が高い者ほど、わたしの状態、つまりわたしという人間に生じている雰囲気に敏感なようだった。言葉で良好なコミュニケーションを意識しても、わたしの身体の状態に即して、声や雰囲気の方は、柔らかくなったり愛想ある風にはなっていないので、このときにコミュニケーションを取るのが難しい。わたしは意図していないのに、不要な場面なのに、言葉に迫力ある声が伴い、雰囲気が軽くならず、わたしはそれに苦しむ。そして、わたしの雰囲気を気にされるのがつらく感じる。空気に左右されにくい個体は、わたしのそのような状態の変化に気付いていないか、気にも留めていない様子に見えるのは助かる気持ちがする。こうして振り返ると、思考の剣の所持、真実対面するという極限状態が身体重量として現れ、それが何なのかわからず、不適応として意識していたが、次第にそれが活きる場面が出てきて開発する方向性になったが、今度は、そのポジションへの固定となり、流動性が失われ、身体的消耗となり、思考の剣が社会不適応の材料になると再認識したのだろう。剣を持つような極限状態、アブノーマルな状態に入っているために、平和状態に馴染まないとも言える。思考と感情の輪が成長する過程で、強く極端に広がることによって、全体の輪を拡大するような流れだったのかもしれない。おもちゃの刀から真剣を手にする過程で、身体重圧を伴う精神活動の方向性が開かれていったのかもしれない。真の精神活動が、身体とつながっており、それは闘争本能の変容である為、身体に重量が生じるのは、ごく自然であるが、このことについて詳しく教えている情報が見つからず、しばらく迷い探る他なかったということなのだろう。わたしの表現、言葉、すべての精神活動が、闘争本能の昇華であり、それが身体と深くつながっており、獣を追い、剣を持って戦うときと同じことをしているのだろう。あるがままの喜びと苦しみを感受するような身体が開かれたとも言えるだろう。身体を眠らせられたような教育の中にあって、夢遊病のように生きていたのが、寝て見る夢によって目覚め、精神と身体がより連関し、精神活動は身体の重圧や痛みに現れ、その逆もしかりであり、心身一如の喜びと苦しみをあるがままに感受している幸せということなのだろう。記号によって現実を直接視ることを妨げられる安全と盲目の中から、段々、森の中で生きる獣のような危険と覚醒が生じてきたとも言えるだろう。身体的な重圧感は、わたしの精神活動の発展に比して強く現れるようになっていったのだろう。まるで身体の方がセンターで、身体の方が物を言うようになって、頭の方は、その補助輪のようになっていったのかもしれない。頭を中心とするような社会性を得ていき、やがてハラを中心とする方向になっていき、それが何を意味するのかを探ったのかもしれない。高い方向の精神は、重圧が生じ、深い方向は眠りに近いような大地と一体化したような軽さになるのかもしれない。わたしの体系は、新しく見直されてきている、もう一度、このことは、整理してみたい。今書いたような意識が、身体に在り、わたしはそれがないかのような顔をして街を歩く。もし、このことを問われても、対面で言語化するには情報量が多すぎて話すことが出来ない。話すことは出来るが、その詰め込んだ情報は、相手の脳や身体に、高速で長い情報処理を強いるために、相手に対して重圧を引き起こす、高圧電流を流すのに似ている。そのような重圧の中にわざわざ入り込んでまで、真髄に迫りたいような個人は、悩み苦しんでいるか切迫した状況だけに限られる。わたしが真に関心ある事は、そういうとき以外には誰も聞きたくない、意味もまた通じない。しかし個人としては、そのエネルギーを留めておける強さがない、留めておけないように出来ている。しかし、対面では短くしか言えない。その為、声や迫力だけが、その精神に呼応して身体化して現れる。佇まい、存在感、オーラというのは、確かに存在すると考えて妥当なのだとわかる。だからこそ、書きつける必要がある。それによって、書く者は余りとなっている精神に、言葉や文章という身体(かたち)を与える、つまり創造する。その余りとなっているものは、一人の人間が抱えているには重圧が強すぎて、世界に放電しなければならない。創造、これが何なのかわからないがもはや人に対してではなく、ただ、世界に対してそれを放出しなければならない。そして、それがたまたま、良い書物や石碑や物語になって、他人が重圧なしで、あるいは低圧で、字面を追うことを可能とし、寄与する可能性もあるが、創造する個人にとっては、それをやらないと自らのエネルギーに破壊されてしまう為、それを常時行っていく必要に駆られる。畑を耕したり、獣を捕えたり、木の実を拾ったりするのと同じことになってきたとも言える。せっかくなので、その収穫物は、物語や思想などにパッケージするとおもしろみがある。真面目な顔で、実質ふざけきっているハラが居るのを感じる。あなたは誰ですか。あなたこそわたしなのだとあなたは言う。