キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

親鸞

親鸞、他力本願の意味を把握する。自我(エゴ)を超えて、自立と依存を超えて、絶対他力のYESを言うこと。

親鸞は、鎌倉時代の宗教家であり、現代では、世界的に評価される哲学者でもある。「他力本願」「絶対他力」を説いたことは有名である。一般に、「他力」は、他人依存の意味に使われることがあって、「他力本願ではいけない」等と誰かが言うのを聞くと、それはちょっと違うんだよな、と思うことがある。そういうときは、「他人依存はいけない」とでも言うべきだとわたしは思う。しかし、親鸞は、世界レベルの哲学者である。彼の言う「他力本願」の深い意味が、一般の推測によって、意味が浅くなるのはやむを得ないことと思われるし、ある種の実相を現していると言えよう。検索すると浄土真宗のページで同様のことを説明しているものがあるが、阿弥陀様の力が人間を幸せに導いてくれる、との言説で、これも少々世俗的で、意味が浅くなっており、ちょっと違うんだよな、という気持ちがする。親鸞は、そもそも教団を持つ意思がなかったと思われるから、わたしが話題にしようとする親鸞、「他力本願」とはまた異なるのかもしれない。宗教心は個人に生じるものである。わたしは親鸞個人に尊敬を抱いているのである。そして、そこに生じた創造力のハタラキに魅せられているのである。親鸞その人の体温を感じることの出来る「歎異抄」を愛読しているのである。

梅原猛の『歎異抄』入門

自立と依存の考察から、他力本願、絶対他力の哲学へ

普段から、自立と依存という言葉を現代ではよく耳にする。なんちゃら自立、なんちゃら依存など、華やかである。自立と依存を相反する二項として把握するのが流行しているのだが、そのメッセージは、自立がいいことであり、依存がわるいことである、ということのようである。しかし、本当の意味で、自立というのならば、全てに自立している人間など存在しない。わたしたちは、間違いなく、この青い星に依存しており、ややこしいものを身につけなければ、宇宙空間に自立することなど出来ない、小さな存在である。それどころか、PC、スマートフォン、科学文明の全ては、過去の遺産を基にしており、先祖たちの発明、発見に依存している。これでは本来の意味とは違うというのであれば、この社会で「自立」することは可能であろうか。ほとんど不可能である。この社会に正しく依存することが、現代社会で言われる「自立」に他ならない。正しくとはどういうことか、税金が使用される生活保護に依存しないように、出来るだけ、会社の収入に依存し、社会の法律やルールに依存せよ、ということである。物事が起こったときに、自らの力で仕返ししたり、復讐したり、裁いたりせず、国家権力に依存せよ、ということでもある。自分で好きに山に棲んで、自活などしないようにせよ、土地所有を定める法律に依存せよ、ホームレスになるな、社会から自立して好き勝手にしてはいけない、ということである。真の意味で、この日本で自立するということは、大変危険なことであり、周囲に危険視されることである。まして、この国は、周囲の空気を読み、その場の雰囲気に依存せよ、その場の人間関係に依存せよ、とのメッセージが強いのであるから、相当な能力と人望を備えなくては、周囲から自立した発言は、マイペース、空気が読めない、何を考えているかわからない、ワンマン等のレッテルを張られがちである。足並みをそろえて、皆で一緒にやろう、君、一人で勝手な行動は慎むように。本当に自立してはいけないよ。ここで言う「自立」とは、社会生活において、自分でお金を稼いで税金を納め、自分で生活を成り立たせて、出来るだけ他人や税金を使わないでください、という意味なんだから、そんなことはわかっているでしょう?との声が聞こえる。他者の価値観を尊重しよう、多様性を尊重しよう、と言うが、この島で一万年以上暮らしていた縄文人のように、山に棲み、狩猟採集生活を営もうとしても、その価値観を尊重できるような幅がこの社会にあるだろうか。ホームレスのこころ、ひきこもりのこころとは、なんであろうか。外からの他人の声を聞け、と社会はしつける。しかし、内からの、こころの深奥の動きが、それをはねつけるとしたら、その力は何であろうか、これが他力である。阿弥陀様の力を信じた結果であろう。阿弥陀様というのがわかりにくいのであれば、意識深層に発する動き、その力を信じた結果だろう。社会ではなく阿弥陀様を信じたということである。集団的なものではなく、個人の心に発する自然を信じているということである。それは、個人の自我ではない、ハラの底に動く自己のハタラキである。自我(エゴ)を超えた自己(セルフ)のハタラキ、創造力、これが、他力であろう。そして、この他力こそが、人類を動かしてきた本体であろう。それは命が運ばれる力である。自ずから生じるハタラキ、本然である、自然である。人間法ではなく、自然の法に従うということであろう。それを、親鸞は、自然法爾と言ったのだろう。そうであれば、現在の社会からはみ出るような物事には、真摯に耳を傾けなければならないだろう。それは、個人ではなく、個人の心の奥底に棲む他力の動きとして視ることが出来るのだから。その他力に耳を傾け、この社会を創造的に改良、建築していかなければならないだろう。水は流れていく、流動している。その水を、わたしたちが社会という枠に囲む以上、その生命がはみ出してくるのが当然である。ゴキブリが暗い所から出てきたと思って叩いていたものを、良く見てみたら、実は、聖なる白い象かもしれない。心の奥に押し込めたガラクタの向こうには、聖なる力、人間を救い、導いてきた生命の光が宿っている。これが他力である。このようなことは、ややこしいばかりであって、理解する意味があるのかと問われる方もいるかもしれない。楽しく、文明生活を爽やかに過ごしたいだけだと思われる方もいるだろう。しかし、高い精神文化なくして、喜びに満ちた生活というのはありえないとわたしは思う。自我(エゴ)優位の、自分が自分が自分が、と言っている間に、他人があなたを殺傷してくるかもしれない。いい人だったのにどうしてこんなことを?誤解を恐れずに、ひとまとめに言い切るのなら、精神文化が低いためであろう。命とは何か。わたしとあなたとは何か。他者とは。他力とは。わたしたちの祖先は、どういう精神でもって生きてきたのか。山川草木動物、一切に仏を見出すとはどういうことなのか。生命を頂いて己を維持するという悪を抱え、煩悩を抱えたわたしたちでさえも救われると親鸞は説いた。善悪を超えたところに、親鸞は何を視たのか。わたしたちの祖先は、なぜ、身動きしない仏像を大事に拝んできたのか。甘い幻想を打ち砕く、生命の真実に触れて動揺したとき、一体どの書物を読めばいいのか、どこに本物があるのか、隠されているベールがはがれたとき、それに馴染むにはどうすればいいのか。理解できない物事に接したとき、政治家の所に駆け込めば、真実の対話ができるのか、それとも彼はどこにいけばいいのか。生きる、ということは何なのか。依存して生きている人間は悪なのか。依存とは何か。自立とは何か。まずもって自分を救わずに、他者を救おうとしてはいけないのはなぜなのか。テレビとは、四角い画面に映されたイメージである。それは全国を駆け巡る、映すものによっては、イメージの次元が多大な被害を受ける。イメージとは、人間が生きて行く上で必要とする魂の別名であり、わたしたちはこれを育てているのである。イメージの損害は、大勢の人間に影響を与える。念仏とは、仏を念じることを意味し、念じるとはイメージすることである。仏とは、わたしたちの心にも宿る、万物に宿る、生命の本源の象徴である。自力に依存しすぎた結果、人間が己を過信し過ぎた結果、世界は矮小となり、平板になる。イメージせよ、と仏教者は言うのである、ジョンレノンが言うのである。他力本願、絶対他力とは、夢を産み出すような所を自己とせよ、ということでもある。自我ではなく、自己のハタラキを信じよ。そこに自我に対しての他力が働いてくるだろう。大体こういう風だと思う。それからもうひとつ、心の奥底は、自然そのものである。他力はそこに現れてくる。自我を超えた動きなのだから、当然、この星の運航、宇宙のハタラキも視野に入ってくる。他力本願は、自然の力を信仰せよ、という意味ではない、なぜなら人を苦しめる自然の力もあるのだから、阿弥陀様がそのようなことをするわけがない、と書いている者があったが、それは、少々親鸞の真意から外れると思う。神を信じているのに地震が起きました、神はいないのか?というくらい浅はかな論理と思われる。自然の力に苦しむ。苦しむのは、煩悩があるからだろう。我々凡人は、煩悩があるから苦しむのであって、自然にとっては、善悪などない。人間にとって都合の良いときに恵みと呼び、都合の悪いときに破壊と呼ぶだけである。どのようなことが起ころうとも、他力を信じよ、さすれば救われる、というのは、人間中心の分別くさいものを超越していると見なければならない。だからこそ悪人も救われるのである。他力のハタラキが、人間を滅亡させるかもしれない。もしそうだとしても、それが阿弥陀様の本意ということだろう。それが自然の法だというのであれば、潔く消えていくのが良いだろう。他力を信じるのならば、そこに人智を超えたハタラキがあるのだから、苦や死に直面しても救われるだろう。それくらい崇高な哲学であり、人間に都合の良いように、苦を避けるために、阿弥陀様が救ってくれるという次元の話ではないと思う。むしろ、人智を超えたハタラキを全面的に他力として受け容れようとの哲学に他ならない。生涯、暗い淵を見つめ続けた哲人、世界に誇る宗教家、親鸞の高い達成であり、これほど力強い信仰の言葉もないだろう。そして、他力本願とは、人間社会を超えた激烈な信仰の言葉とも言えよう。社会からはみ出る者さえも包み込む深い愛があるだろう。善悪二元を超えた所で、yesとnoを超えた所で、大文字のYESを言うことが、絶対他力の意味するところであろう。

「愚禿親鸞」西田幾多郎

親鸞像

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