キクチ・ヒサシ

文化と芸術を言祝ぐ『コトバの塔』

梅原猛

梅原猛「空海の思想について」空海のコトバの曼荼羅、大笑いのYESの響き

梅原猛「空海の思想について」(1980)を読んでおもうところを記す。物事の区別に目が行きやすい人と物事に相似を見出しやすい人と、各々、生まれつきの個性はあるものとおもう。誰かこんなことを書いていなかったか、わすれた。わたしは、長らく、やぎとひつじの区別がつかなかった。みみずとねずみを言い間違えることがあった。へんなものだとおもっていた。しかし、だじゃれが得意だった。意味の違う言葉の音が似ているのを直観的に把握する。美人と不美人とされている二人の芸能人の顔の似ている部分を見つけて知らせるのが好きだった。本質的に似ているものを把握しようとする性分が備わっていた。一見して、相反するもののように見えたり、表面上は区別されるものの、似た部分を見出すこと、それを稲妻のようにつなげること、これが直観機能のハタラキで、ユング心理学におけるタイプ論でいうと、わたしは内的直観タイプで外的感情機能を補助として生活する者と考えてきた。劣等機能としては、思考と感覚があげられ、これらを発達せしめようとしてきたつもりのところがある。表層のことを区別して手で触れることのできる現実を生きるのを不得手とする一方、深層を把握すること、人と人をつなげることを得手としてきた。感覚と思考を練磨したが、それはあまりに疲れる。感情は、適応過剰を引き起こし、それも補助機能であり、もっともわたしの得意とすることではなく、真にわたしに与えられた得手とは、目に見えにくい心像や夢を年中追いかけることであり、ここで把握された深層は、個人が危機的状況にあるときには、治癒として発揮できるものと理解してきたが、その内的な活動というものは、目に見えにくく、密教的であり、金が支払われにくい。お祭りには活きるが、日常で役に立たない。まあこんなところだとおもう。二十代初頭の頃、ウェイターをしていたときに、厨房のおじさんに「教祖やのう、キクチくんは」と言われて、まだ意味がわからなかった。また後半の頃に、「新しい宗教がつくれそう」と同僚の女性に言われて、「うん、つくれるかも」と答えていた。人は自分の個性に合ったことをしていると疲れない。一方、苦手な機能を使用するのは、大変消耗する。すべての機能を大きく備えるような個人は、天の贈り物であり、そういうのは、空海のような天才にのみ生じることとおもう。直観機能は全体を一瞬で把握する。そのため、ちらりと見るだけで充分だ、感覚機能は事物を直接的に観察する、じっくり見なければならない、これがわたしにとっては大変消耗する。西洋人の区別思考の中で、このように把握していた時代があって、いまはおもいだすのも面倒になってきているが、とりあえずこのような時代があったと言いたい感情がある。

空海の密教は、いわば深層心理学であり、哲学であり、芸術であるとわたしはみなしている。顕教が優勢な時代にあって、それは隠れた塔に蔵された秘密である。表層の枝や葉に囚われている中で、土の中の深層、根の世界を蔵している。それはこの世界の秘宝を蔵した塔の鍵である。空海の真言密教。真言とは言葉の奥にあるコトバの世界を意味するものとおもう。現代では、例えば、他人の心が気になる人に対しては、その深層を塞いでしまうことを一般としている。「あの人がわたしをばかにしているような雰囲気なのです」と言う。「それは、あなたに確かめられますか。他人はあなたのことなど気にしていないのだから、大丈夫。他人の思惑を気にしないようにしましょう」と深層はなかったこととして塞ぐことで、表層的社会的地平を重視する。それは大事な態度であるとおもう。そのような深層を開けることは、それに対する智慧を持たなければ危険である。なので、あくまで扉を閉じてしまう、なかったことにするということは、現代社会を維持するには都合が良いし、仕方のないことであろう。それをフロイトは抑圧と呼ぶかもしれない。中には、そのような扉を閉じることが出来ない人がいる。あるいは、その人にとっては扉が透明で、よく見えてしまう。本当に人のこころを、目に見えないようなコトバを掴む人も存在する。一概に、扉を閉めて、蓋をすればいいともならないのが本当だと思う。人間的成長と変容を生きていくのならば、どのような感情であれ汚物であれ、よく表に現す方が良いという立場をわたしは取る。そこに黄金も潜んでいるのだ。表に現すといっても色々な方法がある。書いてもいいのだ。書き続けていると、段々、こころが浄化されてくる。この星の生命の成り立ちの不思議を実感してくる。いい人を演じるのと、本当にいい人になるのには、大きな違いがある。劣等感を自らに認め、良く味わい、劣等感を超えていく道筋と、劣等感がなかったことにして綺麗な顔をして生きているのに、その深層の汚れが知らず知らず表出してしまう道筋とは、同じように見えて、まったく異なっているもので、後者は成長にもまた蓋がされてしまう。きれいはきたない、きたないはきれい。うんこは黄金であり、黄金とはうんこなのである。馬のように暗い、静かな沈黙から、迸るような力と光が現れてくる。暗闇を見つめる先に光を見出すのと、暗闇がなかったことにして蛍光灯の下にいるのとでは、全然異なることとわたしはおもう。と書きながら、わたしは我をわすれて、またこのように書いているのが不思議で、そもそも書くということで、自我(エゴ)を手放すことで、勝手に内なる自己が、大我が語り出してくる。これが空海の言うところの、即身成仏であり、この身に、エゴを超えた生命の本源が現れて、勝手に何かを言い出す。それはわたしという個性の影響を受けながらも、すべてわたしのものではなく、大日如来の光明というところだろう。あるいはうんこというところだろう。全て芸術の秘密であろう。空海は、遣唐使で二十年は学んで帰ってくる決まりであったが、わずか二年で帰国する。そのときの言い訳の口上を梅原猛は取り上げる。そこに、言葉を操る空海の姿が仄見える。コトバを知悉した男にとって、それは造作もないことであったにちがいない。彼のおびただしい著作は、言葉の曼荼羅であり、それはただ一つのコトバ、真言を建立する意図だろうとおもう。梅原猛も書いているが、日本という国は、弥生時代から海外からの文化を導入することで、支配に有利になるため、競って海外文化を輸入しようとして、権力を盤石にしようとする傾向があって、これは現代でも変わらず、海の向こうからやってくるものを有難がる。(アイヌが差別を受けたことにも関係しているだろう。現代では、逆で、アイヌこそ、この列島の基底文化の偉大な保存者であったという風にようやくなってきたのだとおもう)空海も、そのようなことを充分に理解していたに違いない。彼の密教は、遠くインドの哲学を蔵していながら、やはりそれを利用した、彼自身の表現でもあるだろう。同時に、それは生命の本源WANTの現れでもあり、一切の中に仏があり、仏の中に一切がある。わたしの中にすべてがあり、すべての中にわたしが見出される。空海の密教は、空海の深層心理学であり、生命学であり、宇宙論であり、それも知識を超えた体験智に根差した、彼という個体に現れた、彼という個体の内側で照らされた万物の秘密、この星の奇跡への洞察でもあるだろう。わたしは、このブログで黒澤明を取り上げ、三十作品全てについて題して語ることを通して、わたしが自らのイメージを語る器としている。それも黒澤明が映画でイメージを描き、己の生命を表現した以上、わたし自身が内なるイメージを描き、その思弁や直観や感覚を表現することによって、わたしの内なる生命が、当然のことながらそれに響き合うもので、結局は通じ合うのだとどこかでおもっているのか知らん。映画ではなく、黒澤明の生命と対話しようということでもある。黒澤明という生命を生んだ大いなる生命が、わたしの生命を動かす本源である大いなる生命と同一のものだと思っているということでもある。区別よりも円融する部分に反応するわたしという個体に言わせると、大体このようになってしまうのだが、少しは、空海に影響を及ぼした密教に触れるのならば、釈迦自体も、いわば大いなる生命の現れのひとつの個体として見る。釈迦仏教も、その現れのひとつにすぎない。釈迦を生んだ生命の本源こそ、密なるもので、真なるものである。その生命の本源は、密にして隠れている。そのようなものこそが、釈迦という個体の影響を超えて、真なるものである。そういうことだとおもう。そういう真なるものと一体になること、これが即身成仏であり、この身体のまま大いなる生命と一体になることが出来る。それは、釈迦が個体と個人としての環境から、苦行せざるを得ず、精神の高みに昇る過程で、身体を従属させねばならなかったことの欠点を補うものであるかもしれない。キリストも釈迦も、身体性を縛り付けることによって精神の高みに昇り、それは人類が意識という固定を持とうとする段階において必要なことであったのかもしれないが、もう一度、身体を復活し、この身体のまま、精神が宿って、本来の一体となり、心身一如、この星の喜びに、大笑いする境地、それは、yesとnoという二つに分けることが可能となった意識発展に対して、もう一度身体をそこに加えて、大いなるYESに至るための道筋でもあったのではないか、とおもう。日本の仏教史において、空海の示していることは、先進的であったと言えるとおもう。同時に、それは古くインド哲学にとても似ている。更に言うのならば、仏教以前、日本の縄文の民たちは、熊や猪や鹿を頂いて、それは大いなる生命が、動物のかたちをとって、人間に与えられるものとして考え、その動物を食して、自らの生命エネルギーとし、うんこをして、それは大地の肥料となり、動物たちに宿っていた魂は天に還ると考えられていた。そのために、イオマンテという儀式で天に送り返すことさえした。そうすれば、再び、熊の魂は、天に還って、また戻ってきて人間に生命エネルギーを与えてくれる。大いなる生命が、様々なかたちをとって現れ、再び、天に還って、戻ってくる。このような列島の基底文化における哲学もまた、空海の曼荼羅世界観、インド哲学に通じている。それどころかあまりにも似通っているものとして、わたしには把握される。ああ、全然別のもので一緒くたには出来ないが、本質は同じだな、とわたしはおもうのだ。

-梅原猛