夢の成熟
これまで別々のものと認識していたものが、ある朝に目覚めると、それらが一つの布であるとわかり、更には、その布が精巧に縫い上げられたひとつのボールのように眼前に現れて、愕然とする。縫い目を辿りながら、その不思議に打たれながらも、この通りでしかありえない、という気持ちがする。忘れないうちに、簡単に目印を書いておく。それは、夢の機能とカウンセラーの機能と表現者の機能とコロナの機能がひとつのものとして立ち現われてきた、とひとまず書いておける。内奥の自然からやってくるものと外的自然からやってくるものが相似形をしているという認識がバックグラウンドで響いている。
古くからの読者はご存じのように、わたしは2009年から夢を記録してきた。10年以上、夢を記録してきたのだが、今ではなぜ夢を記録し始めたのか、まるで夢のように思い出せない。おそらくはごく普通の興味や好奇心から始まり、その不思議に魅せられた、ということになるのだろう。学生時代、わたしは心理学に興味を持った。目に見えない心の働きの不思議さを理解したいという願望があった。心理学にも分野があるが、心理療法家やカウンセラーが行うこととは、その援助者の心理的知恵や洞察力や容量に依存するもので、妥当性の高い、今では伝統的な理論やベースとなっているものは、理論創始者個人の卓越した洞察によるところが大きい。心を観察するのが心である以上、理論家の観察力、洞察力が極めて高いレベルでなければ、ばかばかしくて読んでなどいられない。フロイト、ユング、アドラーの書物を読むと、まるで文学のようである。小説家や思想家の仕事のある部分に特化したような印象であり、それもそのはずで、古今東西の文学で心理や夢が重要な役割を担っていることは数知れず、それどころか、そのような芸術作品とはそれ自体が夢であると言って間違いない。多くの人々の心に響く、ビッグドリームであるからこそ、長く遺されてきたのである。フロイトの夢診断、ユング分析心理学の夢の重要視が、まるでオカルトのように思えたのは、認識が浅い頃であり、夢は、心の平衡を保とうとして働く無意識からのシグナルであり、個人の日常意識を先取りし、その言語は、読み解きにくいイメージによって構成されるが、そこには無駄な難解さなどなく、それに応じた深い意味を蔵している。無意識は、意識生活をバランスするために、消化するために、反応してくる。それを夢として個人は認識することが出来る。夢を大事にすることで、今の意識生活における危険、あるいは消化不良などを個人は認識し、意識を改めることが出来る。わたしは夢の機能について書物で何度も繰り返し読みながら、自らの夢の分析をして数年経ったあるとき、その機能がカウンセラーの機能と同じであることがわかった。カウンセラーに求められる態度、心の構え、あるいは心の構えを取る、ということもあるのだが、そのような態度や構えやスキルを理解すればするほど、個人が意識生活をうまく無意識によって補償できない場合、カウンセラーや心理療法家は、夢を見る援助をしているのだとわかった。時間と空間の設定に注意深さがあれば、カウンセリングの密室が夢と現実の境界をつくる。深いレベルのやりとりが必要な場合、それが可能なカウンセラーは、心のドアを開けて、対面する個人の意識が語ることをそのまま自らの心奥に響かせて、その心奥の反応を注意深く観察し、その動きをそのまま、その場に現す。すると、夢を二人の空間で共に見るのとほぼ同じことになる。そこに癒しやイメージ転換や深い理解が生じ、現実が動く。意識の中で、独り言のように「ああ、おなか空いたな」と語ると、「まあまあ、あとちょっと我慢したらラーメン食べれるよ」などと返答が浮かび上がり、声に出さずとも会話のような形で語り合うことが出来る。特に頭で考えなくとも、返答は浮き上がってくる。簡単な例ではあるが、誰か他人がそのように「お腹が空いて困っているんです」と語りかけてきた場合に、他人の言葉としてではなく、自分自身が言っているように心を開いて聞いていけば、それに対応する無意識からの反応が浮かびあがってくる。それはとても見えにくく、煙のようにすぐに消えてしまうので掴みがたいが、掴んだら即座にそこに表出すると、それは相手の意識に対する夢を、カウンセラーの心を使って生じさせたものであり、夢と同様の機能がそこに現れる。それは危険な行為でもあり、高い報酬が支払われるべきものだが、あまりにも目に見えない為、そのレベルのカウンセラーの負担は大きく、同僚相手であっても何をやっているのかを言語化することは難しく、言語化した場合でも理解を得ることは簡単ではない。(それは書物にするしかない)同様に、芸術作品というものは、社会や時代に心を開いて生きる個人が、心奥に吸収した全体像に対して、芸術家の心を使って、無意識の反応である夢を掘り起こして作品として定位する作業である、と言える。人々は作品の中に自分自身の心を見出し、それに対する補償や平衡や警告や予知を得る。アウトサイダーが周辺から中心を眺めて、中心における補償となるような心をまず内奥に見出して表現する、これが芸術家や表現者の役割である。夢と同じように機能するのが偉大な芸術作品の特徴である。そのような作品とは部族全体の夢であり、ときには人類の夢なのである。夢を見ない、忘れてしまう者にも、ビッグドリームが処方されるのである。ところで、何度も繰り返し述べているが、夢とはイメージであり、現実に対してイメージによってバランスする機能であるが、あるときからこれを逆に用いて大衆をコントロールするために使われるようになった。テレビや言葉や広告のイメージを先に与えることによって、意識的な行動に影響を与えるために、それは使われる。夢を先に与えて、意識を誤解させる活用法となっている。あるいは個人で深い夢を見るような人間を減らそうとしているかのようだ。話を戻すが、以上のような文脈で夢とカウンセラーの機能は同じものであり、芸術作品も同様であるとの認識を語ったが、(というよりも、わたしに言わせれば、夢の派生なのである)更には、コロナウィルスについても同じ機能を果たしているとわたしは視るようになっている。こう書くと誤解がありそうだが、わたしはコロナが流行った時から、どういうわけかほっとする気がした。なぜなのかよくわからなかった。むしろ、こうしたことを待望していたような心が動くのを感じた。あるとき、「人って飛行機に乗って自由に海外に行ったりしていいのかな」と呟いたことがある。周りにいた人たちは、「え?いいの、いいの、オッケーよ」と笑いながら言った。まあ、普通の返答だ。わたしもわかっている。しかし、わたしの心は、特に用事もない人が飛行機に乗って空を飛んで遠くに行く、気軽に大勢の人が飛び回っているらしいことに関して、何か言いたげなのだった。おいおい、こんなことに突っ込む気なのか、わたしの心は、とわたしの頭は混乱した。わたしの頭の方からすれば、窮屈な社会生活の疲労から別世界への憧れが生じるのは理解できるし、実際わたしもどこか遠くへ行きたいと四六時中願っていると言えないこともない。それなのに、心の方はと言えば、人類史において、民族的な必要性から、命がけで海を渡った人たちに対して、特に用事なく、個人的な欲求で海外に行ったりする、移動したりする、ということに、危機感を訴えている風だった。(その頃、大阪の難波で仕事をしていて、黒いマスクをしたアジア人が毎日大群で観光に押し寄せていたのも影響しているかもしれない。当時は黒いマスクが見慣れず、不気味に思えたが、今ではわたしも黒いマスクを日常的に装着することになっているアジア人なのだが)なんとも変な話に聞こえるものと思う。そんなことはわたしにもわかっているのだ。しかし、わたしたちの心身というものは、個人だけのものではなく、これまでの死者との連関による輪、進化の輪、生命の輪によって成り立っており、社会的にも民族的にも、あるいはこの自然、この青い星の一部分であることからも、個人の欲求だけを押し通そうとすれば破滅する他ない設定となっているのは確かだ。個人的欲求だけを押し通そうとエゴを強める人間の夢には、破滅や危険のサインが現れる。無意識をだますことはできないからである。既に述べたように、無意識は意識が気付いていない危険を、先取りして突き付けてくる。個人的欲求やエゴを推し進めれば、環境も汚染され、他の生き物も生息できなくなり、人類も滅びていく他ない。それは既に多くの偉大な芸術家が表現してきた悪夢である。無意識をせき止めて生きようと無理をした個人は、その意識のダムが決壊するほどに強大な津波に襲われることになる。外的な自然相手でも同様であり、人間の意識が個人的欲求を増大しすぎれば、そのカウンターが自然の側から起こってくる。そのような視点からいくと、コロナウィルスは自然の側からのアクションであり、人間にとっては厄災であるが、母体である地球からすれば福音かもしれない。となれば、コロナウィルスは、まるで夢と同じような機能を果たしているように見える。というよりも、人間が視るということは、夢に帰結するのかもしれないが。自然と文明の多すぎるか少なすぎるかの問題を時事的に見直してみた、というだけかもしれない。そして、コロナウィルスが悪夢であり、そのような悪夢の現実化の中にあっては、肩の荷が下りたようにほっとする心を見出して驚きを感じる個人がいるのも不思議ではないのかもしれない。表現物、創作物、それも夢同様のものをウィルスのように増殖させて配り歩こうとすることに自然と使役されるような個人にあっては、コロナウィルスが人類に大いなる警告を与え、個人的欲求から飛び回る猿の子孫たちに、自然の畏怖すべき力と不思議を突き付けて、内省の時間を与えている現実という側面では、この20年の間、見続けてきた焼け野原、悪夢が広い形で実現されて自らの仕事をウィルスに奪われたかのようだ。あるいは、自らの仕事をウィルスに投影して束の間の休息を貪る怠惰な心が生じたというだけかもしれない。ここまで言葉という乗り物で走ることによって見えてきたのは、夢という自らがよく知る視点で事物を眺めた結果、このように見えるのであって、単に、個人の心身がバランスを取ろうとするように、外的自然、この母体である地球もまたバランスを取ろうとしている、ということを回りくどく個人的理解を深めたということにも思われてきた。株式市場で売買をすることで、この資本主義について個人的に理解を深めている過程で、人間の欲求というものがYESであること、それが人間を高めているという現実に触れてきたように思う。個人的欲求の裏側に、その偶然の中に、人間の発展も隠れている。そのような欲求の中に、個人を超えたものが発現してくる。そこからキリストもブッダも生まれてくる。個人的欲求を超えた、内側から生じる普遍的な意思、集合的な欲求、個を滅却したエクスタシー、略して大文字のWANTが、最大の芸術を創るとわたしは考えてきたし、その上下を共に肯定して生きるにしても、区別する必要までは今も保持している。しかし、案ずることはない、行き過ぎたエゴは、自然によって制限されるだろう。個人的欲求を出発点に、やがて大いなる光へと人間は導かれていくだろう。恐れる必要はない、WANTと共にあれ、個を忘れてエクスタシーに踊れ、大地を走り空を飛び回れ。我を忘れれば忘れるほどに、至高が訪れるだろう。最高の芸術も、最高の時間と空間も、そのときにやってくるだろう。生きよ、わたしよ。世界中に在るわたしよ、まわれ、この青い星という名のわたしよ。これがわたしの夢の成熟なのだ。