場の圧力からの解放
2016/07/09
場において、こちらから関心、好意を示すと、人前では困るという心性があるようだ。(集団的心性に埋没しており、個人としての力が弱い為と思われる)好意を向けられるのは重みでもあるから負担となる。(誠実な好意に触れると、無意識が活性化してしまう為、本人の意識と無意識が職場では葛藤してしまう。相手が強い人の場合は問題ない、一対一の場合も問題ない)
むしろ、好意など持っていないという体裁で、周囲の誰とでも自由にコミュニケーションを取ると、人々は落ち着く。要するに、人の顔色ばかりをうかがっている場の圧力の中に人々はいる。その為、場の圧力から自由になり、話をし、水を運び、誰の顔色も見ないことで、場は変わる。それは、空気を読みすぎる中(つまり顔色を見合う文化)にあって、空気の圧力から自由になり、(誰の顔も見ずに、顔を堂々と見させ)新しい空気を創ることとも言える。ある道化は、観衆の前で踊るのは、初め、龍と相対しているほどの圧力がかかると語っている。その圧力、つまり龍と踊れるようになるには、その場で最もリラックスした状態になる必要があると言う。(その場で最もリラックスした状態になるのは危険が伴なう為、その場で権力を持っている者、つまり王には簡単であるが、そうでない場合、実質的な王の態度がいる。道化とは、影の王のことを言う。(意識の王に対して、道化は無意識の王である)空気を創るのは王の仕事である為、影の王は笑いから離れると危険である。内的には、本能の力(龍)と踊れるどうかであり、(観客席にいる多数の人間は、ステージ上の彼の無意識で在る)龍から離れているだけでは圧力が発生するし、圧力を避けて龍と同一化する(外的には場に順応することに現れている)という、一般に流通している社会適応の心的態度では、内的自由を持つ個としての人格は持てないし、圧力を開放することもできない。わが国では、場に順応できることが社会適応の基本型となっている為であろう。場の圧力の開放は、一時的であり、両義的であり、権力なく行う場合は、危険が伴なう。基本的性質は祭りである。