龍と踊る道化
2016/07/08
The aim is to be the most relaxed person on stage.道化は、舞台の上で、滑稽な仕草をして見せる。彼は、喜びと共に哀しみを抱いた複雑な性格の持ち主で、人々を熱狂させ、祝祭空間を創造することができる。舞台の上で、最もリラックスした人になることが、道化の目指す境地である。シェイクスピアが言うように、人生とは舞台であり、推して誰もが俳優であり、あなたがあなたのいる場所(舞台)で踊ろうとするならば、まず目指すべき境地は、最もリラックスした人になることで、もし、その舞台にあなたしかいないとしても、天は見ている。
河合隼男は、社会生活をする上で、社会的な規範と本来的な自己との間の葛藤は不断にあり、それをどうするかという問題を皆が抱えている、ということを書いている。道化は、社会的な規範から離れ、本来的な自己に、裸に近づく。しかしその表現が、滑稽なものとなるのは、社会的な規範と野性との乖離、その喜びと哀しみを知るからである。最もリラックスした人となるには、滑稽しかない。
ジャック・ロンドン「放浪への憧れは募り/習慣の鎖に心苛立つ。/冬の眠りよりふたたび/野性の血は目醒めゆく」
世の中には、全力で楽しんでも、自分が面白いと思う冗談を言っても、社会的な規範の中に収まって、苦労せずに日々を過ごせる、「普通」に過ごす才能がある人達がいる。一方、別の人達は、同じように楽しもうとしただけなのに、その言動は社会的な規範を超えてしまい、結果「普通」の人達に「変人」として排除されたり、嫌がられたりするので、自分を抑えつけて、社会生活を送らざるを得ないということがある。河合隼男が言うように、「真実は劇薬、嘘は常備薬」でいくのがよろしい、というのが肌でわかっている人達もいる。自分を押し殺さずに、少しでも生かしていくためには、道化になるのがよろしい。スポーツや芸術で昇華するのはとてもいいが、四六時中それを許される人は稀だから、踊れ。滑稽と矛盾が、喜びと哀しみに支えられて、生活のにがみとおかしみになる、「わしら、ええほうじゃよ」龍は大いなる生命の象徴である。
こないだ、週に一度の休みに布団の上で目覚めたら、なぜか声を出して腹から笑っていた。宇宙的に見て、なんだか全てがあほらしくて。その笑いに、救われた。自我ではなく、わざとらしくなく、深い自己のあたりから、ぽんと出てくる意味のわからない笑いがよかった。
道化は、観客に全ての動作を見られる。それは龍が口を開けて飲み込もうとしているような圧力で、彼は、初めはがちがちになり、飲み込まれそうになるが次第に力を強め、龍と踊るようになる。その境地は、視線の前で、社会の前で、最もリラックスした人になることだ。リラックスしているときに、なぜか力んでいるときよりも、本来の魅力が、自然がまとえる。その自然が、喜びと哀しみに支えられていないと、道化という訳にはいかないから、脱力とも違う。龍と踊れる強さがいる。
見られることに同意していない者が多く、見られる力のある者は少ない。人々は儀礼的な無関心を演じながら、盗み見を繰り返している、見られていることを知らない者を見ることで、相手の本質が見えると思っている。青山二郎が言うように、大抵は「感じ」だけを見ている。物そのものを見ていては、日常生活に支障をきたすので、それでいいのだが、他者の視線に右往左往する、人の顔色をうかがって空気ばかり読んでいるのは、生きた心地がしない。ボブディランは、六十年代の絶頂期、人々の視線を無視した。
夏目漱石「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」
そして、龍と踊る道化が生まれる。