星の光と生命の光
2017/06/03
空間を埋めているわたし(精神+身体)が、空間を次々と移動することが出来る。どこにいても、空間を埋めたわたしがここに在る。これを現在している、と言う。
目的地に向かって移動するのではない。この現在が目的地であり、到着地点であり、永遠の影である。わたしは移動する、次々と空間を埋めては空けて、また移動する。わたしとは、移動目的地、移動するゴールであり、移動祝祭である。何度も言うが、わたしが既にゴールであるから、どこか遠くの目的地、達成すべき何かに向かうことはない。そのような義務は存在しない。わたしが存在しているのだ。既に達成され、既に目的地に在る。現在!
現在とは祝いであり、約束された場所、黄金の花、最大の富である。寿、喜びそのものであること。命は、この現在は、個人を超えた何億の歴史を持ち、自ずから運ばれていく、この命の運びを、運命と呼ぶが、この運びを妨げないように生きるとき、命は、YESと大文字で言う。そこから大文字のWANTが湧き上がってくる。命の運びを妨げないことを、他力本願と呼ぶものがいた。大いなるYESの声を聞いたものは、それを光明と呼びもした。星から放たれて進む光と命から放たれて進む光(コトバ、夢、イメージ、エネルギー、そして実は行為の全てだ)は本質的に同一のものであるから。
繰り返し言おう。命から放たれて進む光と星から放たれて進む光は同じものだ。既にゴールに在る、その現在は、人を怠惰や無為に引き込みはしない。WANTの光が、行為となって放たれる、星の光のように進む。黄金と祝いの音色が空間に放たれて、その個体は祝いの伝道者となり、彼はスターと呼ばれるようになる。しかし彼がスターなのではない。命を妨げずに生きるとき、生命の光が進み出て、スターが表に現れたということだ、それは生命から発して進む光が、星から放たれて進む光と同様のものなのだという直観が、個体と本源を混同させて、そう呼ばせるのだ。全ての生命がスターであることは確実である、とわたしは言う。
わたしたちは、この青い星を構成する部分であると同時に黄金の光を所持する全体であり、ひとつの星と等価である。比喩ではなく、わたしたちは、原理的に星と同じものである。既に目的地に在る。達成されている。そのため、これを現在と呼ぶ。現在している、とわたしは言う。
「寿の書 Ⅰ現在の光」