志村けん(1950-2020)「英雄神話の体現と五人囃子の笛太鼓」
2024/08/13
志村けん。いかりや長介に弟子入りし、加藤茶の付き人だった男が、ドリフターズのメンバーとなり、わたしがテレビで見るようになった頃には、人々の心を掴んで離さない英雄となっていた。あなたは、生身の人間であると同時に、人々の大きな投影を受けたイメージ像であり、実感としては死んでいない、という風にわたしの胸に響いてくる。ユングが言うように、世界の半分がイメージであるのならば、「志村けん」はイメージの世界では死んでいない。それは、この島国が良心的に先祖を受け継いでいく限り、生き続けるひとつの元型である。(ここでいうイメージは、現実と渡り合って、強固に存在し、人々の心理と行動に大きな影響力を持つ、という文脈だ。高木ブーが、志村は死なない、不滅だ、というようなことを言ったそうだが、その直観はあまりにも正しい)そして、もう半分の方には死んでいった生身のあなたがいる。英雄神話の元型そのままに、道化が英雄となり、喜劇王となり、悲劇的な老王として去っていく、そのイメージを潔く受け入れ、生き抜いたあなたの方を思うとき、運命と共に生きた男の人生に、圧倒される気持ちがする。あなたは築いた富と共に、どこか遠くの国へ行くことも出来た。押し寄せてくる、人気や有名であることからくる過剰な豊かさの圧力から身を引き、静かな生活を送ることも出来た。事業を行うことも、新人たちを審査する立場に自らを置くことも出来たし、「志村けん」を辞めることも出来た。あなたは何でも出来たはずだが、「志村けん」を最後まで生きた。運命と共に生き、人の心に影響を与え続けた。あまりにも立派な師匠であり、密かに、自分自身で気付いていなかった領域で、わたしもまた、あなたの弟子のひとりだったのだと気付いて驚く。ここで言う師匠とは、お笑い芸人の師匠と弟子という狭い意味では使っていない。その意味では、多くの人々の師匠であり、今後もあり続けていくに違いない。投影を集めて反射することが可能なレベルの師匠たち、マスターたちに頭が下がる。世界の半分を守っている者たちであり、彼らが体現するイメージがいかにわたしたちを守護しているのか、現代の高僧は、寺ではなく、あらゆる場所に潜んで、人々の影に鐘の音を響かせ続けている。
志村けんの鐘の音を聞きたくなり、わたしは「8時だョ!全員集合【TBSオンデマンド】」を贅沢に毎日観ていたのだが、すっかり忘れていて驚いたのは、ドリフターズは、全員集合をライブでやっているのである。しかも、毎回違うステージで、多くの観客の前で、あれを毎週やっていたのである。わかっていたことなのに、このことにまずは感じるところがあった。面白ければ、大勢の観客の反応がダイレクトで返ってくる。それによって舞台上で、手応えを掴んだ芸人が、ますます勢いを強める。そのようなコミュニケーションの場で、「志村けん」は出来上がっていった。回によって面白さにバラツキはあるが、大当たりの回などは、バカバカしい小ネタをここまでやるかというほどに、繰り返されて、爆笑しないのは無理である。過剰なまでのバカバカしさへの傾倒があり、これはおそらく特別なもので、日本で他に見たことがないものであった。近いものとしては、チャップリンの「街の灯」の後半のお腹が痛くなるほど笑ってしまうボクシング場面などに匹敵するリズムがある。土曜の八時になると、音楽と踊りが始まる。ハチマキを締めてお祭りの衣装で踊りながら歌うドリフターズとミニスカートの女の子たちが飛び込んでくる。全員集合は、お祭りとして構成されているのである。さあ、土曜日の夜八時になりましたよ、お祭りですよ、という雰囲気。歌と踊りと笑いがセットになり、時代を代表するスターたちがゲスト出演し、志村けんという英雄が、カラスの歌を操る。これでは、全員集合せずにはいられまい、と思わせる。お祭りは、日常の影を癒すものであり、価値が反転する場である。王様は乞食に、乞食が王様に。このような価値の転換に、爆発的なエネルギーが消費され、一息ついて日常に戻っていく。これがお祭りの構造であり、そこには、皆を先導する道化がいるものである。時代が選んだのは、「志村けん」であった。いかりや長介が権威者として振る舞い、志村けんは、反逆者としてユーモアを武器に戦う。この構図こそが、志村けんという道化を英雄に高め、喜劇王という冠を得るに至る土台となっているものと思う。いかりや長介が、学校の先生役等の権威者の役割をとるとき、生徒役の志村けんがバカバカしいことをして、反逆する。「これ、一体何をしているんだお前は、馬鹿者が!」「怒っちゃやーよ、長ちゃーん」「こら志村、この馬鹿者が!」この爽快感に子供たちが釘付けになり、自由な空気を吸ったことは当然であり、その構図は、上司と部下の構図と変わらないのだから、大人とて同じことである。しかし、多くの英雄神話が示すように、道化が英雄になってしまった場合、次には、王になる。かつて、王の価値を反転させて爆笑を起こした道化こそが、今度は王になってしまう。道化としての役割は、志村けんからは離れていき、彼はいわゆる大御所となる。かつて、人々の爆笑を引き起こした構造で言うと、彼は、「いかりや長介」の役回りになってしまったのである。象徴的に言うのならば、殿になってしまったのである。芸を磨けば人を笑わせられるというものには限界がある。価値を転換する道化の運命が彼を捉えて、時代に笑い声を響かせたのであり、芸だけで人を笑わせていたのではない。王になるということは、個人ではなく公的になるということである。彼は、その役割を全うし、人々に安心感を与え続けた。大爆笑を起こす道化ではなく、人々に安心を与える存在として、無邪気な笑顔と静かな僧のような面影を人々に向け続け、多くの弟子を潜在的に持つ、マスターとなったのである。
ところで、ドリフターズは、五人組であり、人々を楽しませるお祭りのアイコンであるが、ひな祭りでは「五人囃子の笛太鼓、今日は楽しいひな祭り」という歌がある。五人囃子の笛太鼓とは、宮廷の抱えるミュージシャンであり、お祭りで、皆を楽しませる者たちなのである。ドリフターズは、そのような役割、元型を人々から投影されたものと思う。その後、ドリフターズのような役割としてすぐに思い浮かぶのはSMAPである。五人組で、人々の心を投影する器となった。それは少女や主婦の心を掴むアイドルの役割ではなくなっていた。SMAPがその投影を受ける限界が来たとき、嵐という五人組が選ばれたが、その重圧は、並大抵のものではない。この島国では、「五人囃子の笛太鼓」という元型があり、人々を楽しませ癒す役割を持ち、その元型は、次々と投影されて、時代の一端を担っていくかのようだ。
同様に、次の「志村けん」が、現れるかもしれないし、既に現れているかもしれない。そして、わたしたちの深層に「志村けん」は既に元型としてDNA登録されており、祝いや祭りの席で、だっふんだーと飛び出してきて、無礼講とばかりに、その場の偉い者の頭頂部をスリッパで引っぱたいてしまうのも、志村けん元型のなせるわざということだろう。