灯りへの祈り、古の知と鳥たち
2016/07/09
箱庭でわたしがつくったものは、古の知と鳥たちであった。七星剣が、石に刺さっていた。鷹が塔の上にいた。梟は岩戸に隠れた。物質は全て崩れ去り、人々は倒れていた。表現は、現実に対して補償的に現れる、内的世界の発現であった。わたしは、胸を静かに保ち、創造活動をするときと同じような意識状態になるのを待ち、衝動が起こったときに注意深くなるようにした。わたしが置こうとするものと一致する形のものがないのが残念であったが(近いもので代用した)、同時に、わたしが置いているものは、物の形を取った詩的言語(コトバ)と言って良かった。それらを言語で行うことがわたしには可能であった。物を置いて、庭を創るという行為が、物語やイメージが無意識から浮き上がってくるのを待ち、言葉を使って描写していき、全体を創る作業と同じことだった。わたしの箱庭は、自己につながるイメージで、本能につながったわたしであった。古の知につながるということは、外的には、伝統につながること、住吉大社で永代常夜燈に直観したものに連なることであった。個はあまりに小さく、限定されているもので、血につながり、伝統に、古の知につながる必要があった。そして、内的には、深層意識(古層)に自我をつなげることを示していた。そして、この箱庭創造こそ、既に、内的に深い層とつながる試みとなっていた。
灯りへの祈り
東北の震災後、右往左往する我々が、内的かつ外的に参照できる杭や石を、古の知を探ることで求める方向に自然と動く内的なものがあった。借り物の西洋文化を入れている間に、不明となった、日本の古につながる動きであった。宗教や儀式、古から続くものは、単に無知な、空想的な、科学が発達した現代から見れば未熟なものなどではなく、本能が自然産出する心理的なものであり、我々人類の発明とされるものは、そのような自然産出される直観によっており、それは知識を越える身体知、叡智なのである。我々が外的に山や大地を掘り、その危険の中で、黄金や石炭を獲得するのと同じように、我々は内的世界の奥深くから黄金を獲得してきた。外的世界に脅かされるのと同様に、我々は、内的世界に脅かされており、宗教は、内的世界に対応するものであり、その本質、基礎には、深い知が刻み付けられている。宗教が形骸化し、もはや信じられなくなったとき、科学信仰の行き着く先は、真実を覆い隠すベールによって、それが突然やってくる、その大きな不安に対応できないことであり、必要とされているのは、人を安心に結びつける神話、祖先達とのつながりの実感であり、人間の生死を世界観の中に定位する物語、寓話である。震災後、夜に灯りのない人々を祈るとき、住吉神社で永代常夜燈を目にし、祖先達の、灯りへの願いを感じたときに、これらの思索がやってきて、わたしを捉えた。この探索は、多くの人々に同時に起こり、伝統と科学の平衡を、祈りの重要性を喚起し、草の根で人々をつなげた。