黒澤明「どですかでん」(1970)と宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の相似。時空を超えたイメージ世界の実在。
2024/08/13
黒澤明「どですかでん」(1970)を観ました。冒頭の黄金色にわたしは恍惚としました。カラーの黒澤明も、なんと素晴らしいのでしょうか。この「どですかでん」は感覚面で、最も美しい映画かもしれません。黒澤明、60歳。頭が下がります。見えない電車を運転する少年の家には、電車の絵が貼られています、そこに光が射し込む場面に息をのみます。そしてラストもこの少年が運転する電車が走ります。この少年は、まるで「銀河鉄道の夜」のジョバンニのようだ、と宮沢賢治の作品が好きな人は思うかもしれません。「どですかでん」は黒澤明の「銀河鉄道の夜」であり、「銀河鉄道の夜」は宮沢賢治の「どですかでん」で、それらは、イメージの実在を見事に描いて、わたしたちの心に、ずっしりと重みのある素敵なテーブルのように、運ばれてきます。そして、わたしたちは、この角がいいとか、板の感触がどうとか、それを取り出して語り合うことが出来るのです。
「ぼくは立派な機関車だ。ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越す。そうら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へきた」
『銀河鉄道の夜』宮沢賢治
お祭りの日に、ひとりで母親の牛乳を取りに行くジョバンニは、機関車になったつもりで走り抜けていきます。そうして、彼は、ほんとうに銀河ステーションの声を聞いて、銀河鉄道に乗っている自分に気付くのでした。そうして、星の光の世界へ、そして不思議な人達を目撃するのでした。「どですかでん」と言いながら、パントマイムのように少年は、電車を運転し、電車になりきって走っていきます。彼には、その電車が見えるのです。そのイメージの実在性に、彼は乗っているのです。それは黒澤明の姿でしょう。そして、そこには、時代的空間的な配列を超えた、イメージ空間、魂の舞台があり、そこでは、これまで人類が味わった現実が、共時的空間の中で、見事に存在し始め、人間というものが躍っています。それは、人間にこれまで起こってきたことでした。そしてこれからも起こりうることでした。イメージレベルの真実が描かれているのでした。古くからは、これを魂の世界と呼んできたのでした。60年代の善悪の二元の境界を走り抜けてきた、その電車は、より美しい、高い世界へと飛翔します。これまでもリアルな映像でありながら、まるで神話のようなイメージが描かれ、表面的には娯楽の装いをしてきました。ついには、美しいイメージが、時間的配列を超えて、場になってそこに実在し始めたかのようで、映画監督というものを超えて、とてつもなく高い芸術家を乗せて、その電車が走ります。存在することと存在しないこと、色即是空、空即是色、無極にして太極、そんな次元を真に自分のものにした電車の走りを、何も知らないふつうの大人が妨げたとき、少年は言うのです。「あぶねえだろうが、電車に引かれるだろうが、この田舎ものが!」そして、母親が知恵遅れの息子のために、「なんみょうほうれんげーきょー」を繰り返すかと思われる横で、少年の方は母親の方こそが「頭が良くなりますように」と「なんみょうほうれんげーきょー」を繰り返すのです。そして、浮浪者の年寄りと子供は、貧しい暮らしの中、二人が住むことになる家を、イメージの世界に建設していきます。黒澤明が、それを生業にしてきたように、ジョバンニが銀河鉄道に乗るように、宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」を創ったように。そのイメージが、実際的にわたしたちの手に取られていくように。強制収容所で、祈りや信仰や精神的次元の世界を所持していることが、生存に有利な資産になったように。
イメージの世界について、現実逃避であるとか妄想であるとか空想であるとか言われることもありますが、そんな一面もありながらも、歴史を視てみれば、ビジョンとイメージこそが人類にとって重要なものであり、人類の発展にとって、大きな影響を及ぼしてきたことは現代では常識であります。イメージや夢に対して、まだ誤解と偏見もありますが、イメージとは実在し、人間を励まし、包み込み、生きていく意味と智慧を与えるものであります。わたしたちが、外的宇宙に不思議を感じ、探究するのと同じように、数々の宗教家、芸術家が、内的宇宙の探究に従事してきました。それは目に見えない世界を探検するハードワークであり、自然がこの世界を創造しているのと同じように、太陽が廻り、地球が廻るのと同じように、その宇宙飛行士たちの心の世界で、植物のように伸びていくハタラキが生じ、星が廻り、その見えない動きを掴み、その生命に形を与えたとき、この世界にそれが創造されるのでした!それは、危険で価値のある取り組みであり、その遺産は、インスピレーションやアイデアを電撃のように伝え、多くの人間に勇気と希望をもたらし、数多くの人間を育む舞台となるのでした。外的宇宙開発や科学に取り組む人たちにとっても、内的宇宙についての探求が、参照され、相似形として、研究の必要が叫ばれるようになってきました。ゴッホのような芸術家が、宮沢賢治が、黒澤明が、わたしたちの心という目に見えない土壌に、光と水を与えるという事実。これは、全く不思議でありながら、実効性を伴っており、わたしたちの意識を拡張し、高め、深めます。わたしたちは、「銀河鉄道の夜」について、「どですかでん」について、語り合うことが出来ます。それは偽物でも、妄想でもありません。真に存在するものです。たとえ、何もない部屋にいても、わたしたちが所有することが出来る人類の内的資産です。それは、伝え合っていくことが出来、何度でも人の心に産まれてくる創造性、決してなくなることのない人間の精神のハタラキ、生命のハタラキの源につながっているものです。そうしたことをわたしに語りかけてくる黄金映画が、黒澤明の「どですかでん」なのです。やみつきになって、くせになる、心を惹きつけやまない、うつくしい光のきらめき、虹の下に辿り着いた少年、黒澤明の傑作映画なのです。
淀川さん、黒澤映画を語る