黒澤明「醜聞(スキャンダル)」(1950)人の純粋と弱さ。泥水から星を取り出す、深層へのダイブ。
2024/08/13
黒澤明「醜聞(スキャンダル)」(1950)は、驚くことに、キャプラ監督「素晴らしき哉人生」(1946)の影響が強く現れています。更には、黒澤明特集も中盤に入って、黒澤作品同士の関係、芸術家の創造の流れが掴み取れてきました。お話としては、画家が女優と出会って仲良くしていたところ、マスコミに写真を撮られて、恋人関係として週刊誌に発表されます。画家(三船敏郎)は怒り、北野武のフライデー事件同様、出版社の男を殴ってしまいます。そうして、騒ぎは大きくなり、裁判沙汰になっていくわけですが、その騒ぎのおかげで絵は売れて、女優のコンサートも完売という中、ひとりの弁護士(志村喬)が画家を弁護すると申し出ます。この弁護士には、「悪い」ところがあり、しかし、涙もろく、家には心の純粋な娘が結核で寝込んでいます。黒澤明映画「悪い奴ほどよく眠る」(1960)の「悪い」副総裁と娘と同様の関係性になっています。また、「酔いどれ天使」(1948)で志村演じる魂の医師が、結核を治療していたことが、まだここで続いているのを感じさせます。肺は古来から魂の象徴とされています。魂が病んでいるイメージです。それは戦争がもたらした世界観の揺らぎ、魂の痛みかもしれません。戦争は、数代に渡って人の魂を傷つけます。
この「悪い」弁護士は、もちろん良いところもあり、弱い、ふつうの人間です。その為、裁判相手の方の買収に乗ってしまいます。クリスマスの酒場で、「蛍の光」を大合唱しながら、「明日からこそは」「来年こそは」と酔いどれのわたしたちと同じ弱い人間なのです。クリスマスのシーンは、星が映され、泥水に映っている星への言及があり、そこは、フランク・キャプラの「素晴らしき哉人生」を観たばかりのわたしには、まったく同じものを撮りたかった監督のこころが伝わってきました。宮沢賢治「銀河鉄道の夜」のラスト場面、川に星が一面に映っていて銀河のようにしか見えないジョバンニの視線を思い浮かべる人も多いかもしれません。法廷でのやりとりが続き、娘が死んでしまい、弁護士は、最後の最後で、相手方から振り込まれたお金の証拠を提出し、自らの罪もろとも白日に晒します。そして、マスコミ相手に、画家は、「今日、星が生まれたんだ」と言います。この星とは、「今日、天使が翼を手に入れたんだ」という風に響き、フランクキャプラの天使が翼を手に入れるのと、この弁護士こと酔いどれ天使が、星となった、ということがイコールなのだとわたしには響いてきました。チャップリンの映画「独裁者」(1940)の名演説では、こんなふうに語られて終わるのでした。「見上げてごらん、ハンナ。人の魂は、翼を与えられていた。そして、ついに飛び始めた。虹の中に飛び始めたよ。希望の光の中に、未来の中に。輝かしい未来があなたに、わたしに、すべてのわたしたちに。見上げて、ハンナ。見上げるんだ」
黒澤明のイメージを夢と同様に見るのならば、社会を生きる以上泥水を被らずには生きていけない。そのため、泥にまみれた酔いどれ男がいて、純粋な心を象徴する病気の娘がいて、冷静に見守る画家がいて、酔いどれ男は、娘に象徴される魂(アニマ)に導かれて、泥の中から星を取り出す。
マスコミの利潤追求の「悪さ」と殴ってしまった画家の「悪さ」とスキャンダルを喜ぶ大衆の「悪さ」、それは、わたしたちの弱さと言い換えることができるかもしれません。しかし、泥水にも星があり、その星を掘り起こした酔いどれ男は、スターになるのです。作品としては、これ以上に高次のものが黒澤明映画にはたくさんありますが、弱い人間に対する温かい視線が際立って伝わってくるのが、この「醜聞」で、以後、黒澤明が世界的芸術家として名を馳せるまで、あと少しの所まで来ている。わたしはそう感じます。高く昇るためには、深く潜らなければならない。その深層へのダイブが、この人間くさい弁護士に現れているようです。