黒澤明「酔いどれ天使」(1948)魂の医師の処方
2024/08/13
黒澤明監督の映画「酔いどれ天使」を(1948)観た。わたしが黒澤明映画に衝撃を受けて、折に触れて観るようになったのは、割合、最近のことである。しかし、「まあだだよ」はもう五回は観たと思う。「乱」は映画じゃない、夢を観ているレベルで吸い込まれる。黒澤明脚本の「雨あがる」は、それこそ何度も観て、涙を流しては、セリフの物真似をしてきた。映画というジャンルで、「八月の狂詩曲」のラストのようなシーンを一体、どれくらい味わうことが出来るだろうか。世界の巨匠とは言え、古臭いものなのではないか、こむずかしいものなのではないか、などと邪推した若い頃が恥ずかしい。黒澤明の映画があるということで、どれだけ救われてきたか、わからない。自らの心を収めるような映像作品を求めたとき、彼の映画があることで、どれほど、勇気づけられてきただろうか。彼が巨匠として評価されるということは、まったくもって正当なことと感じる。地球意識で生活するような時代でありながらも、基底民族意識として、日本人である意識を捨て去ることなど出来ず、それどころか、わたしたちは、この列島の大地の精霊である。いつか、火星で生まれた人間が、母なる大地に憧れを持つだろう。そのとき、わたしの子孫はこう言うのである。「おれの先祖は、アースジャパンで生まれた」「ジャパン?」「ジャパンは、巨匠黒澤明を生んだ大地さ」「わーお、わーお、わーお!そりゃすごい」「今日は、黒澤明Nightをしないか、ベイベー」「まあ、あなたってなんて素敵なことを言うの。うっふん」
「酔いどれ天使」はドブの周囲で、医師と結核を患ったやくざ(三船敏郎)の出会いと別れを描く。テーマ曲のように、ギターの音色が何度か鳴るのだが、これが奇妙に心をくすぐる。本当に使いたい曲が使えなかったなど、色々あるそうだが、そういうのはおかまいなし、このギターの音色に惹かれた。美しく、深い。 そしてこれが映画のBGMとなりながらも、登場人物たちが弾いていることに、主人公たちは意識的であり、「また弾きだしやがったな」「あれ、この曲は、あのひとがよく弾いていた曲だわ」などと物語に関わってくる。黒澤明の映画では、音楽は映画の小道具などではなく、人生の一部なのだ。黒澤明の一部なのだ、と言ってもいい。部分は全体を現し、全体は部分を現すという見方をするならば、この音色一つで、もう黒澤明の全体を示唆する。これは映画というものを超えて、生命感に溢れた有機的なものらしいぞ、という迫力に満ちているのが、彼の映画だ。つまり、本物の映画だ。という風に人は言うのである。
医師と若き三船敏郎の掛け合いはどうだろう。裸の人間のぶつかり合い、なぜ、言いたい放題にののしり合いながらも、二人は、惹かれ合うのだろうか。なぜなら、ぶつかり合うほど、近づいているのだから、二人は、まさに触れ合っているのだ。ヘミングウェイの「老人と海」で男が獲物である大魚と戦いながらも、そこには、お互いにしかわからない真実の触れ合いが生じる。彼らは、自由で感情的で生命に溢れている。感情を抑えるのが良いと思いすぎている人が時々いるが、感情こそ、生命を導く水であり、羅針盤である。彼らは生きている。生きている人間を観ることほど、楽しいことはない。「映画」や「ドラマ」なんかじゃない、生命を捉えている。それが映画だ、と人は言うかもしれない。
夢のシーンも非常にいい。結核に追われている三船敏郎は、波が洗う砂浜で、木箱に斧を叩きつけている。そうして、その木箱からは、自分の姿が現れる。夢の記録を始めて8年目になるが、夢とは、魂のレベルの現実である。ドストエフスキーが書いているように、それは、存在する。わたしたちが、現実と思っているものに、夢レベルの、魂レベルの現実を付け加えて、はじめて、わたしたちが存在すると言える。目に見えないものを、神秘や迷信と片づけてきた表層意識は、古びたものとなり、内的宇宙の探索が、これからの人類にとって外的現実と同様の価値を持って、再評価され、一般化されていくだろう。優れた科学者、芸術家たちが、夢の中で手にした黄金が、わたしたちの生活を一変させてきたことは、偶然ではない。夢が、創造者の心の奥深くから自然産出されるのと同様、この自然世界の創造と、わたしたち人間の創造は、相似形をしており、それは、次元のみが異なる、本質的に同じエネルギーの無形からの有形作用、つまり創造なのだから、黒澤明が夢を描くことも、単に小道具として観るわけにはいかない。そこに、わたしたちが思う「現実」を超えたリアルを描くには、夢のようなイメージが必要なのだ。そして、黒澤明の映画全体は、いわば、彼の夢なのだ。
白衣を着た医師、物語には欠かせないこの元型は、まずもって芸術家というものが、魂の医師であり、教育者であるところから、ここに黒澤明の姿を重ねてしまうのも、無理もないことと思う。そしてその観方で良いのだ。
「なにもかもが、ばかばかしくて、ヘドが出そうです」というセリフが好きだ。本音というのは、美しく輝いて、水を綺麗に流していく。本当の人間の姿、わたしたちの本当の姿のみが、人を癒すのだろう。魂の医師から、それがわたしたちのもとに処方され、あたたかいお茶を飲んだら、布団にもぐって、朝までぐっすり眠るのだ。