ウディ・アレン「ミッドナイト・イン・パリ」(2011)芸術家とパリ
2016/07/09
ウディ・アレン「ミッドナイト・イン・パリ」(2011)は、日本では2012年5月26日に公開されたと言う。本日は5月27日、星のめぐりは不思議だ。ウディ・アレン。その名に人は何を思い浮かべるのだろうか。ひとつのジャンルとなった名前。ウディ・アレンとは、日記である。徒然草である。この世を二つに分けるときの代表的な象徴、女性と男性の恋、心理描写、風景、それらが連続して、物語となっていく気配。肩肘張っていない、日常的地平に繰り広げられる人間群像、軽やかなウイットとウインクの数々。フランスワインでも買ってきて、ウディアレンで、いっちょ、涼しくなろうか、この星の喜びがどんなふうに描かれているのか、画面にその光を投影してみよう、という気分。
芸術を愛好する者なら、誰でもパリに憧れたことがあるに違いない。ヘミングウェイ、ガートルード・スタイン、ジャンコクトー、T.S.エリオット、ジェイムズ・ジョイス、モネ、ロダン、フィッツジェラルド、ピカソ、モディリアーニ、ダリ、マン・レイ、マティス、ロートレック、ゴーギャン、ドガ、ゴッホ。芸術家たちが、時空を超えて、主人公の眼前に現れ、動き、喋り出し、交流する。わたしは2016年にいて、この映画は2011年に公開されている。そして、主人公は、深夜零時の鐘と共に、1920年代のパリに迷い込む。これを単にタイムスリップなどと言う視点では語る気にならない。日本最高の知性の一人、道元は「正法眼蔵」という文化的記念碑を打ち建てたが、彼は、背いた弟子がかつて座っていた板の部分を切り離したという逸話がある。彼は、山奥にこもり、時代を超越し、著作に心血を注ぎこんだ。弟子が座っていた時代を切り離し、再構成するような荒業が、彼の著作の秘密であろう。時代を超えて、共時的構造の中で、本質が、時間の存在しない場に立ち現われてくるとき、わたしたちは、本を読んでいるのか、映画を観ているのか、それとも、魂のレベルの舞台に、すっぽりと落ちてしまったのか。
「過去、現在、未来という区別は、どんなに言い張っても、幻想である」
「人間とは、わたしたちが宇宙と呼ぶ全体の一部であり、時間と空間に限定された一部である。わたしたちは、自分自身を、思考を、そして感情を、他と切り離されたものとして体験する。意識についてのある種の錯覚である」アインシュタイン「今絶対に描きたいのは星空だ。夜は昼よりずっと色彩豊かなのだ」
「太陽が絵を描けと僕を脅迫する」ゴッホ
フィッツジェラルドとゼルダ、あるいはヘミングウェイと主人公が対面したとき、彼らが現在に生きている空間として、そのイメージの舞台に現れたとき、衝撃が走る。映画という時空間の中で、わたしは彼らと対面していた。それはウディアレンの夢であり、わたしの夢であり、わたしたちの夢であることが、わかった。偉大な芸術家たち、それぞれ内的宇宙開発に従事している、宇宙飛行士たちが、魂の舞台で、わたしたちの暮らしの半分、イメージの世界を創っている。それは、共時的に、この青い星に現在する。と風が語りかけてくる。太陽の光を受けるパリ、青い夜と星降るパリ、そして、雨のパリ。美しい都市と芸術が、わたしたちを護り、共に在り、輝いている。そういう映画とパリと、内的宇宙飛行士たちに、乾杯しよう。