青木拓人「話の途中」(2008)に感涙した思い出
2024/08/13
涙を流すことはありますか?と聞かれたらあなたは何と答えるでしょう。わたしは今、そのことについて考えています。というのも、先日わたし自身がそう問われたのです。深夜、アスファルトに寝転がり、夜空を眺めていた時に友達がそう言ったのです。彼は何の理由もなく涙を流している時もあると話したように思います。思います、と書くのはお酒を飲んでアスファルトに寝転がっていたので、わたしにはその時の記憶に関する自信がもてないでいるのです。
「泣く時とかありません?」と彼が訊き、わたしはそれを理由のない突発的で、感覚的にこみ上げる涙と捉え、わたしは、そういうことはないなあ、と答えました。でもすぐ後で、質問の範囲が、何かの媒体をきっかけに涙を流した経験をも含んでいることが了解されてきましたので、もちろん泣く時はあると自信たっぷりに答えました。まず初めに浮かぶのは曲でした。青木拓人の「話の途中」です。これを即座にわたしはあげました。わたしは普段はあまり泣きません。お涙頂戴のドラマなどは、泣こう泣こうと太ももをつねるほどに、泣けなくなるという病を背負っていまして、わたしはそういうお楽しみからは永遠に弾き飛ばされています。その悲しみを思うと泣けてくるほどです。青木拓人の「話の途中」に話を戻せば、まずは声です。そして声を伴なった歌詞です。そして、必要最低限の音がわたしを包み込みました。包み込む?深夜で、部屋はパソコンのモニターがついているのみ、という状況でわたしは「話の途中」を繰り返し聴いていました。自分に与えられたボディを抜け出し、あたかも、「話の途中」の音こそがわたしの本来の肉体であるかのように、わたしの胸を包み、顔を包んでいました。そうして、熱い水が目から湧き上がってくるのです。何度聴いても、そうなのです。これは涙でした。この曲には人間の善きものがフレバーされています。音楽を超えた、生命が焼きついた息吹なのです。その息吹がわたしを揺すぶり、頬を実際に震わせたのです。熱い涙がまるで曲の中に、声の中に、歌詞の中にこそ含まれていて、その源流を受けたわたし自身の涙をも誘発したのではないか、とわたしには思われました。誰もが底に秘めている核が、曲を通して、わたしの核に語りかけてくるのです。わたしはこういう作品を熱烈に愛します。核をもった作品というのは何度でも聞くことができ、何度でも読み、何度でも観るに耐えるものであります。それは我々がこの世に生れ落ちた奇跡の再現であり、魂の可視化、可聴化であり、永遠という別名を持つものに他ならないのです。それらは、おのずとわたしに涙を流させるのです。お前にも還る場所があるのだと言わんばかりに。これがわたしの涙です。