青木拓人「球状するダンス」(2018)レビュー。青きタクトが先導する、ミュージックパレード。虹色マンダラと飛翔する馬。
2024/08/13
青木拓人の新譜「球状するダンス」がこの世界にリリースされたことを、あなたは知っているかもしれません。前作「NOTE TONES」が抒情詩だとするならば、ニューアルバムが叙事詩的であることに新鮮な驚きを覚えたあなたも、ますます洗練された音楽の強度に打たれたあなたも、とにかく青木拓人が大好きで仕方がないあなたも、声と楽曲にシンプルに惹きつけられているあなたも、お気に入りの詩の断片を胸に抱えたあなたも、「球状するダンス」ってどういう意味だろうと考える楽しみの中にいるあなたも、各々が通勤時に、パーティ時に、ひとり部屋で、異なる時空に身体が在りながら、青木拓人の「球状するダンス」という同時間の中にダイブして、青き指揮棒(タクト)に合わせて、ミュージックパレードの中で踊り、銀夜を目にするか、融け込んでいたか、その夢の中でまどろんでいたかもしれません。わたしは、「球状するダンス」の時空の中であなたにお会いしていたような気がするのです。親愛なるあなたへ、今日は青木拓人の「球状するダンス」を語りたいと思います。
写真:(旧)青木拓人ホームページ
聴覚で捉えられるものは時間において、視覚で捉えられるものは空間において提出される、とジョイスは書いた。わたしたちは、「球状するダンス」を時空において他から切り離して認識した。音の連なりは時間の流れによって生じ、その約45分は、音楽を製作し、構造化していく詩人の足取りが結晶化したものであり、背景には膨大な時間が積み重ねられている、表現というレベルでは生身の青木拓人が生きてきた時間の重なりでもある、わたしたちは、それをひとつのものとして認識し、次にはひとつの全体として視る。それを言葉で現して「球状するダンス」とわたしたちは呼び、イメージやヴィジョンで現すならば、わたしたちは目を閉じるだけでいい。
絵:青木拓人「光の粘土」
「球状するダンス」というアルバム全体をひとつのものとして認識し、わたしたちは共有している。そして、その球状する線をなぞっていって、そこに点を認める。点と点が連なり、リズムを構成して流れているのを感じる。12の楽曲という部分部分を感じ、更にはひとつひとつの楽曲の部分へと踏み込み、複雑でありながら統一された調和を感じとる。やがてその時空の中に光が射し込むのを感じ取ったのならば、それは普遍化の証であり、古くは天与と呼んだものであり(天から降り注ぐ光)、わたしたちは、こういうときに、傑作の誕生を祝う。この青い星も、わたしたちの生命も、ひとつのものであり、全体を持ち、部分を持って構成され光を浴びている、これは一体どういうわけなのか、人類は数千年に渡って解き明かそうとしてきたが、未だに謎のままであり、どこかにわたしたちを超える創造主がいるのか、偶然なのか、宇宙の不思議に翻弄され続けてきた。「球状するダンス」は、青木拓人が創造主であり、詩人は創造時空間の中で密かな認識を得、わたしたちが原子や分子のような球体によって構成され、同時に地球という球体の部分として成り立っている以上、青木拓人が表現し、創造するダンスの軌跡が、全体として球状していないはずがない、極めて高く抽象化された詩人の認識が、天翔ける馬が、そのようなマンダラ的な全体性を持つ世界を見下ろしているとしたら、このような視点で、境涯で、製作される楽曲が、歌声が、全体を構成するタクトが、凡庸なものであるはずがないのだ。
絵:青木拓人
青木拓人の前作「NOTE TONES」を聴き込んでいるあなたならば、「話の途中」「夜を灯して」「まどろみ」のような名曲を浮かべることが出来る。しかし、新作「球状するダンス」は、全体として前作を上回っている何かがあるような気がしてならない、一体それは何だろう、声、歌詞、楽曲の広がり、色々なことが思い浮かぶ。それらはすべて正しい。そして、きっとこういうことも浮かんでくる。ボブディランの曲で一番を選べと言われても困難なように、ニールヤングの一番の曲と言われても選びようがないように、もはや演者の存在感、屹立した存在が、そのプレゼンスが、わたしたちのもとにプレゼントとして届けられているのであり、青木拓人という存在が通底する音響となって全体を貫いているのだ、と。その存在の光が強まり、輝き、一般に言うような意味での「曲」という概念で受け取っているのではない、意識の棚に置いてある、ボブディランやジョンレノンやルーリードやベックやトムヨークと並んで「青木拓人」として受け取り、わたしたちは特別な宝物を胸に集める子供に舞い戻って微笑んでいるのだ、と。「話の途中」や「夜を灯して」という曲を創った青木拓人ではなくて、「青木拓人」という存在が、マスターピースになって、あなたの宝箱の中に滑り込んできたのだ。言い方を変えると、すべての曲が素晴らしい、いいえ、それはもはや曲ではない、いいえ、どの曲も「青木拓人」になったのだ、と言いたい気持ちを抑えきれない。すべての楽曲が青木拓人している。普通の意味の「良い曲」「名曲」というのを超えている、つまり普通の言い方だと、「球状するダンス」というアルバムは、「いい曲ばっかりで飽きない、気持ち良く聴ける名盤だよ」ということになるのだ。
写真:(旧)青木拓人ホームページ
1曲目「流れ者」は、伝説的バンド、mo’hows(モハウス)でプレイされていた曲であり、軽やかな風のご挨拶となって冒頭を飾る、この脱力感と音のセンスは、青木拓人の十八番芸だろう。2曲目「川辺の話」は傑作。祝祭感、突き抜けた肯定、楽観が心地良い、天国で遊ぶ子供たちの姿が見えるようだ。わたしの見解では、「話の途中」の後継曲であり、ありふれたものと特別なものの軸を軽々と超えて、天性の明るさ、YESの光が眩しく、「嵐の後、折れた大木」の上で遊ぶ天使の姿が浮かび上がってくる。
3曲目「群青」は、詩人の観察眼が光り、歌詞の構造的な完成度も高い。疾走するブルーの世界にずっと浸っていたいと思わせる魔力がある。個人的には、「ぬいぐるみを抱えた派手な身なりの老婆が煙草をくわえてマッチを擦る」というところで、毎回笑わせられる。音にのって、この歌詞が指示するイメージが飛び出してくるときに、わたしの中である感興が重なって吹き出さずにはいられないのだ。4曲目「吹く」は、聴けば聴くほど良くなってくる、個人的には、このような曲が幾つ並んでも構わない。「群青」が動ならば「吹く」が静であり、対として聴くのも面白い。5曲目「renge」は、言葉遊びがたのしく、消化してきた音楽的教養、モハウス時代を想起させるような脱力感が魅力だ。6曲目「ある記憶の断片」は、音作りもさることながら、直観に溢れた歌詞が見逃せない。青木心理学である。7曲目「umbrella」は、「まどろみ」に匹敵する美しい旋律を持った曲であり、アルバムの中心を成し、誠実に何かが歌われている。傘とは何であろう。様々な解釈が可能だが、人は、アメリカの傘の下や会社や肩書の傘の下に入る。集団性への迎合という代償を払い、安心を手にする。しかし、詩人の場合はどうか。間違いなく、それは一人用の傘なのだ。それは孤独な闘いであり、誇りでもある。己の傘だけで生き抜いていくサムライの矜持を想起させる。(ジャケットの傘を持つ姿も、どこか侍を思わせる)また、誰もが生きる以上、一人用の傘を持っているとも言える。開いたり閉じたりする心のようでもある。ため息、くたびれた部屋、物憂さ、そのようなものが歌われた後、「たてがみ揺らす影が空駆けてゆくよ」の感動的な上昇が、この曲のハイライトである。わたしは、個人を超えた無意識の力の発現をイメージした。普段は影になっていて、困難の最中に、心の奥底からやってきて、わたしたちを掴み、上昇させ、救ってくれる、あの力を想起させるのだ。そこから還ってきた馬に乗った英雄は、自然の事物に開かれていくのだ。
写真:(旧)青木拓人ホームページ
8曲目「銀夜」は、10曲目「僕など」(ミュージックパレード)と並んで、このようなヴォイス、青年の誠実な声を聞きたかったのだと悟らせる。これを待っていた自分に気付いて唖然とする。「銀夜」と「僕など」(ミュージックパレード)は、この時代を生きるわたしたちのテーマ曲なのだ。「空き地に咲いたクレマチスのアーチをくぐり抜けたら深呼吸」し、タフに生きてきた生活者の視線は、ファンタジーを抱えた我々は、遠い昔からの記憶と星のリズムに開眼し、自由の旗を掲げるミュージックパレードに至る。現代に生きるわたしたちを励まし、勇気づける青きタクトの放つ光の粒子があなたを貫いていく。「ミュージックパレード僕らに、喜びの歌聴かせてよ」「光るオリオン見上げる」時代に対する教育を含む表現は、詩人が自然に負わせられている運命の一つなのだろう。
絵:青木拓人
「umbrella」「銀夜」「しゃっくり節」「僕など」「outro(遠い子守歌)」は、すべて日常の地平から始まり、流れとしては、ある「開け」へと至っている。孤独から世界に開かれたり、太古の記憶や星のリズムに踊ったり、しゃっくりや喉の渇きのような身体現象に開いたり、「腹の横隔膜が動きましたが呼ばれましたか?」現代人の自我、思惑、思考に対して、「それがどした?」を合図に、夜の宴へ、眠りの世界へ開かれていく。ユングが言うように、共同はあたたかさを与え、個は光を与える。一人傘を開いた男が、困難な異界を潜り抜けて世界に開かれ、馬に乗って帰還し、その成果を共同にもたらす、そのとき、わたしたちには、それが光として見える。共同は節制し、保ち、あたたかく、深い。個は浪費し、清め、加え、光をもたらす。
11曲目「ヤマとカワ」は、山と川、母親と父親、自然の猛威と恵み(嵐と明日)を、対称させて描きながら、「えいえいおう」と言う誰もが知っている掛け声が、この上なく、カッコ良くアップデ―トされている。この静かな曲が、「えいえいおう」に至って聴衆と共に歌うシーンを是非見てほしい。
「庭じゃカタツムリが落ちそうにゆっくり虹を渡ってく」青木拓人の虹マンダラ、その個性は「球状するダンス」によって定位し、世界にリリースされた。2018年最大のトピックが、この春に吹いて降って、わたしは桜の花見をしながら、「球状するダンス」を鳴らし、人に会えば、青木拓人の話をしている。季節と共に、日々と共に、嵐が来れば明日も来るこの世界を、この虹色の時空と共に、歩いていくことになるだろう。サンクス、アオキタクト!
絵:青木拓人「虹マンダラ」