「女の人たちとの出会い」(2010)
2016/08/19
仕事前や後に、カフェに寄ることがある。ファーストフード店の時もあるし、そうでない時もある。二十代後半くらいの女二人組と言葉を交わしたのは、夜の九時半を過ぎた頃だった。
私は四人掛けもできる窓際の席に一人で腰掛け、キーボードを叩いていた。同様の席が右隣にあり、化粧に余念のない女が一人で腰掛け、フライドポテトを美味そうに食べている。私の前方には二人掛けの席があり、そこに二人組のふくよかな女がトレイを置き、腰掛けた。髪を後ろで束ねた方の女が腰掛ける前にこちらを見て、何かを言った。それから腰掛けたが、腹に脂肪を蓄えすぎた為に、席が狭くて仕方がないようだった。腹がテーブルと椅子に挟まっているように見えた。向かいの女も小柄とは言えず、二人が座るには、四人掛けが必要に見えた。彼女達は、私に文句がありそうに見えた。(一人なのに四人掛けに座ってる)しかし文句は口にされなかった。つまり、文句は存在しないことになった。
「もう狭くて無理」と髪を束ねた女が言い、立ち上がり、私に向かって訊ねた。「この椅子借りていいですか?」
「はいはい、どうぞ」と私は言った。
彼女は椅子を一つ取り、私に背を向けて座り、ハンバーガーを食べ、友人との雑談の中へ消えていった。
少し後で、私の右隣の女が立ち去った。二人の女が席を移動して、私の右隣を占めた。
一時間は文章を書いた、と思う。店内は閑散とし、オレンジ色の照明が優しい光を投げかけている、彼女達は私の席の方向に顔を向け、おそらくは窓越しに外を眺めていた。静かだった。彼女達はうわさ話を始めた。私は三人で話しているような気になった。彼女達を視線に入れてみた。隣に腰掛けた女は化粧気のない黒髪の女で、グレーの上着を身に付けていた。声が高かった。向かいの女はウェーブをかけた茶色の髪を肩まで垂らしていた。目が大きく、唇が大きかった。
「えー、25歳で一度も付き合ったことないのはやばいよね」とウェーブの女が言った。
私は彼女に顔を向けた。それから、隣の女を見た。隣の女が笑いかけた。おそらく私も笑った。二人の後景に私はいて、彼女達の漫談(これが二人の前景だ)の観客という位置を占めることになったみたいだった。二人がそれほど男を知っているのかと思って、私は彼女達を見た。特別な才気は窺えなかったが、女性特有の活力に溢れているのは確かだ。何を話したかは失念したが、そうだよね、と私は同意の言葉を口にしたような気がする。彼女達は笑った。見知らぬ男と意思疎通ができた時に、不透明な壁に色がつき、世界がほんの少しではあれ変化したという喜びが彼女達を笑わせるかのようだった。
しばらく男達のだらしなさについて話が続き、どことなく、男を手玉にとってきた、という自慢話のような風が感じられた。やがて、無理な話は長く続かず、隣の女が話題を変えた。痩せたい、ダイエットをしたい、と言った。
「そのままでも良いと思うよ」と私は口を挟んでみた。
「えー。無理無理。もうやばいから」
女達は私の言葉を否定して、私の存在は肯定するように笑った。
私はキーボードに戻り、彼女達は雑談に戻った。
「ねえ、十円ちょうだい、十円」と隣の女が言った。声が随分高くなっていた。
「えー、今お金ないからダメ」と向かいの女が冗談めかして言った。
「いいから、十円ちょうだい」
「給料日前だもん」
私はパソコンを鞄に入れて、立ち上がり、財布を開け、十円を出して、彼女のテーブルに置いた。
「仕方ないな、じゃあ十円あげる」
「いいのー?」と女が言った。
「その代わり、ひとばん付き合ってね」と私は言った。
「ひとばん?」と女は言い、眉を上げ、私の顔を見て、それから自分の顔を赤らめて笑った。
彼女達の席の前を抜ける時に女たちが、おやすみ、と言った。
「一緒におやすみする?」と私は言った。
女たちが声を高めて笑った。穢れのない、清潔な顔で私を見た。女たちが急に素顔に変化したように、私には見えた。
別の日のことだが、同じ店の窓から一番遠い壁際に腰掛けて、パソコンを開いていた。アイスコーヒーを飲み、腕時計が示す、朝の七時過ぎという時間に浸っていた。
知らない女が一人、向こうから歩いてきた。私を見て、それから隣の席に腰掛ける時に、「一人?」と訊いた。
「あー、そうです」と私は言った。
「何してるん?」と女は私のパソコンを覗き込んだ。
「仕事してます」と私は答えた。
女は七十近いように見えた。白髪のショートヘアで、大きなつばがある帽子を被っていた。黒い布の服の上下を着、右手の中指に大きな石のついた指輪をはめ、ヒールの高いサンダルのようなものをはいていた。目が鋭く、肌が茶色をしていた。エスニックなネックレスが目を惹いた。
男がトレイを手に向こうから歩いてきた。小柄で、ハットを被っている。白色のポロシャツに灰色のズボンをはいていた。顎と目が細く、微笑んでいる訳でもないが、薄く大きい唇の端が両耳に向かって上がっていた。
「おっちゃん、砂糖一つじゃ美味くないやろ。もう一つ貰っておいで」と女が言った。低く、しゃがれた声だった。男が背を曲げて、レジの方へ歩いていった。
「おっちゃん、八十やで。見えんやろ?」と女が言った。
「見えないですね」と私は言った。
「富士通の時期社長言われてんねん」と女が言った。東大に入ってな、富士通の次期社長言われてるけれど、いばったらあかんって言うてきかせてる。いばったら自分に負けることになるやろ。と女は続けた。息子の話らしかった。
「水商売の女に金注ぎこんでな、お兄さんそういうのはあかんで。あいつらあればっかり考えて、ここ、ずぼずぼやで。何があいつらママやねん。スナックのママって何やねん。何が偉いねん。わたし、嫌いやねん。ママとか言って笑わせるな」
男が戻ってきた。二人は煙草に火をつけ、時々吸い、後は指に挟んでテーブルに置いていた。ミルクと砂糖をたっぷり入れたアイスコーヒーは目の前に置くだけで、ほとんど口をつけなかった。
「わたし、人相学やってたから。たこには声をかけんから。そんなもんたこにどんだけ言うたって無駄やろ?あんたは賢そうな顔やから声かけたんや。顔に出るからな。あんたは人と話すとき、目を見るやろ?弱点のあるやつは穢れてるから目を逸らして話すんや」
「そうなんですか」と私は言った。目を見ると、彼女に緊張感が走るので可哀想に思ったが、そうまで言うのならば、と思い私は彼女の目を見た。
見てこれ、と雑誌を女は出した。「坂本竜馬や。あんたも勉強好きやろ?知ってるやろ?いい顔してるな、やっぱり昔の人は偉いな。学校も行ってないのに、独学で字もうまいしな。この顔見てみ、いい顔してるやろ?」
女が指した坂本竜馬の写真は、坂本竜馬を演じている福山雅治の写真にしか見えなかったが、特に指摘する必要もなかった。
息子が富士通の次期社長と目されている話と、これからどこでご飯を食べるかという話と、娘は美人であるが性格が悪いという話、坂本竜馬のような昔の人は素晴らしいという話、「たこな女につかまったらあかんで。自分より賢い人間と付きあわなあかんで。賢い女でないとあかん」という話が順番を変え、何度も新しい話のように繰り返された。
「優しいのと女々しいのは違うからな」と女は言った。「しっかりしているのと、きついのも違うからな」
「なるほどー」と私は言った。
「仕事中にごめんな、お兄さん」と女は続けた。「このおっちゃんもな、やくざやってん。みんながそう言ってたけどな、でもこんな静かで、力も無さそうで、背も低いしな、どこがやくざやねんと思うてたんや。何かの時に怒ったらな、『ワレ、なにをけつかしとんねん』かなんか言うたからな、これはやくざやな思って、おっちゃんに聞いたら、『少しだけ』言うてな。なあ?おっちゃん、そうやったんやな」
男は、女を怒らせまいとしている風情で、何を言われても頷いていたのだが、今回も静かに頷いた。
「本物はな、静かでな賢いもんなんや。このおっちゃんも大学出てるしな」
「大学を出て、そういうのですか」と私は言った。
「そうや」と女が言った。男は恥ずかしそうに俯いていた。女の話の誇張と歪曲に、いつもながらの話に羞恥心を覚えているように見えなくもなかった。
米を研いだ水でうがいをすれば歯が白くなる、子供の頃満州にいたからロシア語が話せる。父親は人間国宝で、子供の時、わたしに護衛が二人ついていた。美容師をしていたが、今でも指示を出すだけで、わたしは何もしなくてもいいくらいだ。こうした話の間に、女は男とご飯を食べる場所についての検討を挟み、「美味しい味噌汁が飲みたいな、おっちゃん。こないだの店の味噌汁は不味かったな。あそこ行こうか」と立ち上がった。
女は男に指示を出して、片付けをさせた後、「お兄ちゃん、またね。たこな女につかまったらあかんで」と言って、一歩一歩踏みしめるように店を出て行った。ヒールの高いサンダルから、ピンク色の踵が少しはみ出ていた。
私は一人になり、文章を書き始めた。思わぬ時間の取られ方はしたが、まだ休日は十分に残っている。一時間か二時間くらいは文章の中に入り込んだ。九時を過ぎていたと思う。先ほどの女が目の前に立っていた。
「お兄ちゃん、まだおったん?」
「ええ、いましたよ」と私は言った。隣の席が埋まっていた為に、女は窓際の方へ歩いていった。少し遅れて、ハットを被り、トレイを持った男が歩いてきて、私に微笑んで行った。
しばらくして隣の席が空いた時に、女が立ち上がって言った。「お兄ちゃん、横に移るわ」
「ああ、そうですか」と私は言った。
おそらく砂糖をもう一つ取りに行った男が戻ってきて、私の隣に女が移っているのを見て、驚いた顔をした。
「こっちに移るで」と女は言った。男が従い、トレイを持ち、気まずそうに腰掛け、煙草に火を点けた。
同じ福山雅治が表紙の雑誌、煙草、ミルクと砂糖が二つ入ったアイスコーヒー、同じ三人が同じ配置で腰掛けている悪夢のような中、女が口を開いた。「富士通の次期社長言われてんねん」
違いは女の様子が変化したことだった。「同じ店に二回も来て、たこやな。おっさん、小さいな、160センチか?」
「158センチ」とおっちゃんが俯いて言った。
「なんや、160もないんか。小さいな、それでよくやっとったな。いつも、そういう姿勢やから小さいんやで、おっちゃん。何を横を向いてんねん。こっちを見て話せ、たこ!」
男は横を向いたまま、微笑んだ。いや、口の形が常に微笑の形になっているかのようだ。長年の防衛の為に、そういう形となったのだろう。
「おっちゃんも水商売の女にようけだまされたやろ。なあ?だまされたやろ」
男が微笑んだ、ような口の形をしていた。
「おっちゃん、小さいもんな。おしっこするだけやもんな」
男は黙って、何度も頷いた。嵐が過ぎるのを待つ間、お祈りをするように、何度も黙って頷いた。
「こっち見て、話せって言ってるやろ、たこ。しわくちゃな顔して」
男の顔が赤くなった。女の顔も少し赤かった。私に向かって言う時に、覚えのある臭いがした。
「お酒飲んできた?」と私は言った。
女は少し否定するようなことを口にした後、「少しだけな」と言った。
「おっちゃん、顔赤くなってるな、酒飲んだからな。水を飲め」
「お兄ちゃんはいつここに来る?」と女は言った。
「来たい時に来ます」と私は言い、パソコンを閉じ、鞄にしまった。立ち上がり、「それじゃあ、また」と言った。嫌がられて、逃げていくのではないか、と懸念するかのような目で女が私を見た。
「たこな女につかまって時間を無駄にしたらあかんで」と女は立ち去る私に言った。
「もちろんです」と私は言った。
少し前の話だが、深夜の公園で会った、マコちゃんの話をしよう。
ギターを抱えて、公園に立ったのは夜の零時だった。ギターを背負い、スニーカーを鳴らしてリズムを取り、陶酔と覚醒を両立させようともがいていた。二時になる頃、マコちゃんはやってきた。
赤い帽子を被った女が、腰掛けてギターを弾いていた私の前に立ち尽くしていた。
「ギター習ってるの?」とマコちゃんは声をかけてきた。
「いや、習ってないよ」と私は言った。
彼女は近づいてきた。
「わたし、マコって言うの」
「へー」と私は言った。
ダンスをしていたことがあるの、でも今は膝が痛いからやってないけど、(ここでマコちゃんはズボンをまくって、白い足を見せてくる)わたし歌が好きなの、でもここで歌ったらあそこのアパートに響くから、砂場のほうで歌ったほうがいいよ、それに、ギターは我流じゃなくて、基礎を習ったほうがいい。わたしは昔、ロシア民謡を習っていたから、わたしはいろいろ基礎があるけど。ところで明日、わたし、歌うの。来ない?マコちゃんに呼ばれたって言えば、みんな歓迎してくれるよ。わたし、人気あるのよ。若く見えるでしょ?これでも七十歳なの。
三十分ほどこの調子が続いた。眠る時間だった。
「名前なんていうの?」
「キクチヒサシ」
「え?」とマコちゃんは顔を近づけて、聞いてきた。
「今はメモないからね。名前、覚えられるかな。今から支払いをコンビニでするところだから、そこでメモを借りれば・・・・・・キクチさん、携帯電話もってる?」
今は持っていないが、所有していると答えた。
「どこに住んでいるの?」
私は、だいたいの場所を指で示した。
「さあ、もう眠らなきゃ。マコちゃん、また会おうね」 立ち上がると、マコちゃんは、私の横に来て、「お兄ちゃんの横を歩こうかな」とついてくる。
足がおぼついていなかったから、 横を彼女にあわせて、ゆっくり公園を横切っていった。
わたし、ビールでも焼酎でも、何でもいけるの。普段は節約してるし、明日は居酒屋でご飯食べて焼酎飲んでから、スナック「ふゆみ」で歌うの。飲めば、飲むほど声がでるのよ、わたし。
「ぼくは、飲めば飲むほど声が出なくなるよ、美しくは」と私は言った。
コンビニまで送った。
「じゃあね、キクチさん、わたしマコちゃんよ、ちゃんと覚えてね」
彼女は、手を大きく振った。
「バイバイ、マコちゃん。また今度ね」