「まもる君の家出」(2008)
2016/07/09
まもる君が心療内科に連れていかれたのは、家出を失敗した翌日のことだった。小学校からの帰宅途中、友達に別れを告げ、川を渡った。もう二度と家には戻らない、とまもる君は固く決心していた。ランドセルの中にはチップスターが二つに板チョコが五枚あったし、水筒には玄米茶がまだたっぷり残っていた。財布の中にお爺さんに隠れてもらった千円札が三枚あるのも心強かった。
まもる君は橋を渡った後、スーパーの横にある中華料理屋に入って、スープチャーハンを食べた。もうしばらくは温かいものを食べられないとまもる君は思っていたし、三千円も持っているということですっかり舞い上がってもいた。もう僕は大人になったんだ。レンゲでチャーハンをすくいながら、まもる君はなんだか誇らしかった。
だから店を出て、買い物帰りのお母さんにばったり遭遇した時、まもる君はびっくりしてしまった。
「まもる、どうしたの?六時になったら家にいる約束でしょ」
「もう僕は大人になったんだ」とまもる君は言った。「もう学校にもいかないし、これからは一人で暮らすよ。もう僕を子供扱いしないで」
馬鹿、と言ってお母さんはまもる君の頭を平手で二回叩いた。まもる君は泣いてしまった。
「泣けばいいと思って」とおかあさんは言った。「あれ、唇にそんなに油をつけて、何食べたの?いいなさい。何を黙ってるの!」
まもる君はその日、お父さんとお母さんにひどく怒られた。飯を抜きにされ、誕生日プレゼントに約束していたゲームソフトは来年まで延期となり、外の物置きに閉じ込められた。
「あの子、一人でチャーハンを食べていたのよ」
「今からふざけたことをさせているとヤンキーになってしまう」
それからお父さんとお母さんのお互いのしつけ方を非難し合う声が聞こえ、遠ざかっていった。ちくしょう。勝手な奴らだ、とまもる君は思った。そして、物置きの戸を足でがんがん叩いた。ころん、と音がして、戸が開いた。つっかえ棒が外れていた。まもる君は棒を持って、アパートの裏側に向かった。まもる君の家は三階建てのアパートの一階にあった。まもる君は格子を超え、ベランダに下り立ち、窓から居間を覗いてみた。二人はプロ野球中継を見ながらビールを飲み、肉じゃがを食べていた。まもる君は頭に血がのぼった。今日の夜はカレーライスがいいと言ったのに、やっぱりお父さんの大好きな肉じゃがをお母さんは作ったのだ。そして肉じゃがさえも僕は食べれないんだ。まもる君は棒を思い切り振って、何度も窓に叩きつけた。お母さんの悲鳴が聞こえ、窓にひびが入り、割れ、破片がまもる君の頭に降りそそいだ。窓が開き、しゃがみ込んでしまったまもる君をお父さんが抱き起こし、そのまま、こぶしで頬を殴りつけ、髪の毛をぐっと引っ張った。
こうしてまもる君はお母さんに引っ張られて心療内科に足を踏み入れることになったのだった。
「まもる君は昨日、家出したんだって?」と白衣を着たおじさんが言った。優しい声だったので怪しいぞ、とまもる君は思って返事をせずに黙っていた。
「まあ、座ってよ、まもる君。そうだカステラとコーラがあるんだ。食べる?」
「そんなに甘やかして大丈夫ですか?」とお母さんが言った。「それとも先生、うちは厳しすぎたのでしょうか?テレビではこないだ、愛情が大事だと言っていました。こないだ読んだ本では甘やかしが全ての元凶とありました。先生、まもるはどうしてこんな風になったんでしょうか?このままだとヤンキーになってしまうんでしょうか?……生まれたときはお釈迦様のような顔をしていたんです。鼻がすっとしていて、それがこんなことになってしまって」
「お母さん」と白衣のおじさんが言った。「まもる君と二人で話したいので、しばらく外でお待ちいただけますか?」
お母さんが部屋を出て、花瓶が一つ置いてあるだけのテーブルにカステラとコーラが運ばれてきて、まもる君はおじさんが仲間かもしれないと思った。カステラを食べて、コーラを飲むとまもる君はとても気分が良くなった。
「おじさんはね、カウンセラーという仕事をしてるんだよ。カウンセラーって知ってる?おじさんはね、まもる君の味方だよ。良かったら家出のこと話してくれないかな?」
まもる君はげっぷをした。いつもならお母さんみたいに、音がしないように口の中に出して、それからゆっくり空気中に吐き出すのだけれど、なぜか、まもる君はげっぷの音を遠慮なく出した。久しぶりのことで気持ち良かった。本当にゲップという音がしたのも楽しかった。
おじさんはげっぷを聞いて笑った。「いい音だね。まもる君のげっぷは」
げっぷで怒らなかったので、このおじさんはやっぱり仲間かもしれない、とまもる君は思った。
「まもる君、ゲームをしようか?」とおじさんは言った。「あのね、これからまもる君は、一番最初に浮かんだ思い出を言って欲しいんだ。言ってくれたら、ご褒美としてチョコバナナアイスが食べられます」
チョコバナナアイスが食べられるのか、と思うとまもる君は楽しくなってきた。
「そのゲームしてやってもいいよ?」とまもる君は言った。「遠足の思い出でいい?」
「いやそういう思い出じゃないんだよ、まもる君」とおじさんは言った。「目を閉じてごらん。そう。暗いでしょ?その暗い中で怖がらずに目を凝らしてごらん。きっと何かが見えてくるよ。そういう思い出がいいんだよ、おじさんは。ほら何かが浮かんできたね。そのことを話してごらん」
まもる君は暗闇の中にいた。そうやって暗いのをじっと見ているのは初めてだった。やがて草原で遊んでいた時のことを思い出した。「頑固親父の家の前の草原にいるよ、今」とまもる君は言った。「コンクリートの台があって、ストローがさしてあるカフェオレが見えるよ」
まもる君はカフェオレに近づいた。それからストローをくわえて、吸い込んだ。すると何かイガイガするものが喉に引っかかって、とても痛い。まもる君は咳き込んで喉のものを吐こうと試みた。やがて、二匹のアリがコンクリートの上に吐き出された。こいつらが僕の喉を噛んでいたのか!まもる君は腹が立って、アリを靴底で踏みつけた。
「その時はまもる君はどんな気持ちだったのかな?」とおじさんの声が聞こえた。
「どんな気持ちもしなかったよ」
まもる君はそのあと頑固親父の庭にいつものように入って、物干し竿で逆上がりをしようと思った。まもる君がぶら下がった瞬間、物干し竿はぽっきりと折れてしまった。まもる君は慌てて、家に帰った。その夕方に頑固親父が家にやってきて、まもる君に訊いた。
「物干し竿が折れているんだが、まもる君、何か知らないか?」
「知らないです」とまもる君は言った。
「まもる君、もう目を開けていいよ」とおじさんの声が聞こえた。
まもる君は目を開けた。白いカーテンに陽があたって黄色くなっているのが、とてもまぶしく感じた。
「おじさん、今言ったことお母さんには内緒だよ?」
「まもる君は正直者だね。アリをふみつぶしたことも、物干し竿を折ったことも正直に話してくれた。それじゃあ、ご褒美をあげよう」
まもる君はチョコバナナアイスを食べた。もう一つ食べたいとまもる君は思った。
「カマキリをつかまえるのが僕は得意なんだよ」とまもる君は言った。まもる君はある時、カマキリをニ匹つかまえて、ダンボール箱で飼った。ふたはせずにサランラップを上にかぶせておいて、友達に見せびらかしていた。ある夜に、ダンボールの中を見るとカマキリがもう一匹のカマキリを食べているところだった。まもる君は動転してしまい、サランラップを破り、食事中のカマキリの首を持って取り出した。こら共食いするな、かわいそうだろ、とまもる君は言った。それに答えるようにカマキリはとげとげしいその手でまもる君の指をつかんだ。まもる君は痛さのあまり反射的にカマキリを床に投げつけ、踏みつけた。カマキリはどろりとしたものを出して、動かなくなった。
ここまで話してから、まもる君はおじさんの顔を見た。しかし今度はチョコバナナアイスは出てこなかった。まもる君は話し続けた。ある時、河川敷の長い草の間で鳴き声が聞こえて行ってみると、黒い鳥が草に挟まっているのが見えた。まもる君は大きな石を拾ってきて、その黒い鳥にめがけて投げた。ギャーという鳴き声が聞こえて、鳥は静かになった。まもる君は秋にはトンボをつかまえて、羽を両手で持って引っ張り身体を真っ二つに裂いた話もしたし、両親のコンドームを一つ盗んで、おちんちんにはめてみたことも話したが、アイスはもう出てこなかった。
「まもる君は、カマキリをふみつけ、黒い鳥に石をなげ、両親の避妊具をとって股間にはめて擦ってみたんだね。なるほど。まもる君はどんな気持ちがする?こうして思い出してみて」
「どんな気持ちもしないよ」とまもる君は言った。
「正直に言ってごらん。今まで正直に話してくれたようにだよ、まもる君」
「本当にどんな気持ちもしないよ」とまもる君は言った。
「嘘をつくな!」とおじさんは言った。
「本当だよ、おじさん」とまもる君は言った。
「そんな訳はないよね。優しいまもる君だもんね」とおじさんが言った。「本当に正直に言ってごらん」
まもる君はどう言えばいいかがわかったので、
「正直に言うと、とても悲しいです」とまもる君は嘘をついた。
「そうだね。でもまもる君は反省している。そうだね?もうしないんだよ」とおじさんは言った。
そういう感じで、まもる君は場をやり過ごして、家に帰ることができた。でも、まもる君はますます家出をしなければならないという思いを強くした。おじさんに嘘をついてしまったし、正直に色々なことも話してしまったし、来週にはまたおじさんのところに連れていくとお母さんが言っていたからだ。今度はもっと準備が必要だ、とまもる君は思った。
(2008)