スキュルチュール江坂という美術館で彫刻とおしゃべりした話:ロダン、ジャコメッティ、マンズー
2016/07/09
彫刻を見てきた。大阪の吹田市にある、「スキュルチュール江坂」という名の小さな美術館だ。すきゅるちゅーるというのが、なんとも大げさな良さげな、アートっぽい感じをかもし出している。正直キーボードを打ちにくいので困る名前だが、館内は最高だ。彫刻、なんて退屈でさ、わざわざ見たいとも思わないよ、という時期が僕にもあった。それが何であるか、彫刻が何なのか、ピンとこなかったわけだ。お恥ずかしい年月を僕は過ごしてきたが、人間というものはある日、突然に覚醒することもあるのだ。
美術館のドアを開ける時、カウンターの前に座った二人の女の館員達が、「あ、お客が来た」という訳でそそくさと背筋を伸ばし、見事な素早さで館員としての仮面を顔につけた。僕は彼女達の前に行き、「こんにちは」と言った。
二人の館員は長い黒髪にスーツを着た美しい女達だった。神が創りだした美しい彫刻の二体、その四つの目が、彫刻を見にきた僕に対する歓迎としては最上のものと言わねばならない趣で、首を揺らし、立ち上がり、金を受け取り、唇を動かして吐息をもらしながら、マニュアル言葉を空気の中に響かせる。
館内は貸切だった。四角に切り開かれた大きな窓からは芝生が見え、緑の葉を豊かにつけた木々が見える。カウンターの前には太陽の光を浴びた木製のテーブルとイスがあり、希望すればコーヒーやジュースを飲むこともできるようになっている。長いレンガ張りの廊下には彫刻家達の肖像写真(神のようにさえ見える)が並び、廊下の突き当たりには最初の彫刻が待ち受けて、薄闇の中で光を浴びている。
ロダンの「バルザックの最終習作」からいく。僕は彫刻について学術的な知識は皆無である。彫刻は習作を繰り返して創るものなのかね?とにかく、長い髪をした男が立っている。(これがバルザックなのか)重心は左足に掛かっていて、彼にとっての右上、遠くを見ている。首元から足元まで長いマントを着ている。光を浴びた男は黒光りして、身動きしない。白い壁に彼の黒い影がはっきり映し出されている。テコでも動かない男に見える。この目の前の存在は、僕よりも重く、長く生きているし、これからも生きていくことを示唆していた。存在という点で言うならば僕の敗北は間違いなかった。だが、言っておくよバルザック、並びにロダン君、魂の世界があるなら、話はまた別だ。で、どうなのかね、そっちの世界は?
「そうなんだ。話したくて仕方がないよ」とバルザックは言った。
ざらついた石の塊から、剣のように伸びている男の像である。細い顔と首と胸と腰が石から突き出ている。見落とされがちな、実に細い男である。そしてその存在は、激しく僕の心をゆすぶった。人間の虚飾、まわりくどい肉体や骨をも省略して、ここには存在だけが、立ち上がっているという、奇蹟が発生している。この男が愛しい。僕達の存在を極細に捉えられた。僕はこの男だと思った。ポストカードを買ってしまうほどに気にいった。この男に僕は頬擦りをして、泣いてもいい。その涙は枕に染みを創り、その形はまぎれもない存在の足跡だ。
「枢機卿」は鋭い男だ。司祭風の格好をしていて、その帽子は長い女の爪のように、空を指し示し、そのマントは緩まずに、潔癖に、足元まで伸びている。全体が巨大な銃弾を思わせる。鼻はあるが、表情は伺いしれない。彼の存在感は、人間の高潔な部分を結晶化したもので成り立っている。右の手がマントから突き出されて、人差し指が何かを指し示す。妥協のない、鋭く尖った高潔な男が、もし存在するならば、こういう形でもって、精神性を示すだろう、というような完璧なフォルム。フォルムと言いたくなる、美しい
線だ。僕はこういう男になりたいと願った。そしてその願いは叶わないだけに、一層、彼の存在をどこまでも至高なものにする。僕はあなたの元で働きたいです、枢機卿。あなたは無表情なまま、その高潔な精神性で、民族の破滅さえも指示しかねない指先をしている。その尖り方に惚れたのです。
以上、僕の彫刻家に対する戦いは敗北に終わった。敗北という形の勝利が、文章家にはふさわしいとも言える。300円で入館できる割引券をもらったから、リベンジの時はまた訪れて、僕は再び喜んで敗北するだろう。
(2008)